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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    二 朝倉孝景の西軍から東軍への帰属
      浦上則宗らの工作
 当初に孝景との連絡交渉にあたった伊勢貞親は、文明三年に老齢を理由に官を辞して引退するが、後半にこの役を代行したのが、赤松氏の被官の浦上美作守則宗であった。嘉吉の乱により没落した赤松家は、山名氏に対抗する細川勝元の支援もあって、南朝方に一時奪われていた神器の勾玉を赤松方が奪還したという、いわゆる神璽奪還事件を契機に長禄二年(一四五八)再興された。応仁の乱が始まると、赤松氏は当然細川方に属し、文明二年ころまでに播磨・備前・美作の旧領と四職家の地位を回復し、幕府の侍所所司に任ぜられ、宿老浦上則宗も所司代となった。一方、赤松氏と朝倉氏との関係も見逃せない。嘉吉の乱にさいして朝倉氏は、「赤松被官人と所縁の故」をもって処罰が論議されたという(『建内記』嘉吉元年七月十二日条)。また朝倉氏の奉行職を勤める魚住氏は、播磨国明石郡魚住荘(兵庫県明石市)の国人として赤松氏に臣従していたが、嘉吉の乱後は浪々のすえ朝倉氏の家臣になったという(『幻雲文集』)。このような朝倉氏との所縁もあり、赤松氏の幕府復帰に報いる最初の功績を意図してか、浦上則宗は朝倉孝景の東軍勧誘工作に乗り出したものであろう。
 文明二年以降は赤松政則・浦上則宗や細川勝元の内衆らの発信した書状が続く。これらの文面で常に問題として現われる語句は、「只今申承候分」「今度申される条々事」「御所存の趣」「御約速(約束)」「次の一ケ条の事」等々である(「朝倉家記」所収文書)。細川勝元の叔父の持賢の強い反対意見にもかかわらず、孝景は幕府に対して東軍帰属のための条件をもち出していたことがうかがえる。越前における孝景の軍事行動が一般には常に不可解とみえる背景には、孝景が東軍に帰属した場合、同陣営となる斯波義敏の存在を無視できなかったからであろう。長禄合戦以来、常に反義敏の態度を鮮明にしてきた孝景が宿敵義敏の指揮下で戦いを進めることは、孝景の最も容認できない行動であったに違いない。しかも、孝景が義敏を排除して越前で有利な軍事行動を展開するためにも、越前の守護職または守護権の行使、あるいは代行の必要性を感じ、これを強く要求したものと思われる。



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