目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    二 朝倉孝景の西軍から東軍への帰属
      乱中における孝景の動向
 応仁元年(一四六七)正月十七日に始まる京都上御霊社の合戦に畠山義就軍として参戦し、勝利をおさめた朝倉孝景(英林)は、勢いに乗じて同月二十一日に在洛する斯波持種・竹王父子を襲撃してこれを追放した(『後法興院記』同日条、『雑事記』同年正月二十三日条)。
 乱の当初から斯波義廉とともに西軍に属して最も目覚ましい活躍をみせたのは、朝倉孝景であった。『応仁記』の記述はもちろんのこと、『雑事記』や『私要鈔』の筆者は、孝景の奮戦ぶりや動向を伝え聞くまま随所にこれを書き記しているが、東軍側にとって孝景は、実に恐るべき存在であった。西軍斯波義廉の東軍への降参条件には「朝倉之頭を取りて降参せしむべき旨、御下知成さる」とあるように、孝景の首が要求されたほどであった(『雑事記』同年六月十三日条)。しかしこれを不可能と知った東軍は、次の手段として孝景を自己の陣営に寝返らせようと画策したのである。
写真176 朝倉孝景(英林)画像

写真176 朝倉孝景(英林)画像


写真177 「朝倉家記」所収文書

写真177 「朝倉家記」所収文書

 「朝倉家記」(富山県立図書館所蔵)には、応仁の乱中に孝景が西軍から東軍に寝返る過程で幕府から朝倉方へ発給された一連の文書群が収載されており、当時の複雑な政情と東軍の政治的かけひきを知るのに貴重な史料となっている。以下、これを中心にして、孝景の東軍帰属の過程を追ってみたい。
 孝景に対する東軍への勧誘工作は少なくとも応仁二年に始まり、九月三日幕府の政所執事伊勢貞親は孝景に対し勧誘の書状を送っている。文正の政変で追放されていた貞親は応仁元年、細川勝元の政略によって幕府に召喚され再び政務に就いていたのである。貞親からの書状を受け取った孝景は、「真実上意ニ候哉」と耳を疑ったほどであったが、これに応えて将軍足利義政の御内書も発給された。
 当時の越前の情勢は応仁元年五月、「越前国斯波兵衛佐(義敏)方打入の由注進、管領斯波治部大輔(義廉)迷惑」となり(『雑事記』同年五月二十一日条)、翌二年五月には義敏方の軍勢により朝倉党類はことごとく国中から追い出されたと伝えられていたが(『私要鈔』同年五月二十二日条)、さらに同二年閏十月十四日には、「越前国大略義敏打取の間、国方(義廉)難儀也」という事態のなかで(『雑事記』同日条)、孝景は嫡男氏景だけを京都に残し、兄弟両三人をともない越前へ下向した。これは義敏に対する反撃のためと一般に理解されていたらしいが、十二月には逆に西軍の朝倉が数日前に義敏に降参したという報ももたらされている(『碧山日録』同年十二月十二日条)。
 翌文明元年(一四六九)に入り、七月二日付の貞親書状に「御方に参り忠節致さるべき由御申し、誠に以て神妙に候、仍って御内書成し下され候」とあるように(「朝倉家記」所収文書)、このころ孝景は東軍帰属を承知したらしい。この事実は、孝景と立町氏がともに義敏方に寝返ったため、甲斐氏だけが孤立してしまったとみえることと対応している(『私要鈔』同年七月十日条)。しかし七月十二日には、「越前については種々の雑説が流れているが、朝倉氏が義敏方に属したということは虚説のようだ」とも記されている(同 同日条)。孝景に対する東軍勧誘工作は幕府内部で秘密裡に進められていたため、越前における孝景の軍事行動は東西両軍にとっても不可解な動向として映り、世上でもこれが噂となり、虚報と実説とが入り乱れたのであろう。同年十二月八日付孝景充ての貞親書状にも、「孝景からの注進の旨を将軍に披露したところ、京都での情報と大きく違っている。まずは戦功をもって態度を示せ」ということが命じられている。この孝景からの「注進の旨」とは、この書状に付記された「書付」によって知られる。このなかで孝景は御内書や国拝領の御判を頂戴しながら合戦を延引させたことに対する将軍の疑義に答え、孝景の下国当時の越前は国の内外ともに敵の西軍方で占められており、一合戦でもして敗北すればかえって東軍の不利ともなるので、表向きは西軍に従いながらも準備を調え、文明元年六月に合戦を始め、八月に大勝利を得たのであると弁明している(「朝倉家記」所収文書)。しかし文明二年当時においてもなお、在京する氏景の去就を含めて、孝景の東軍帰属の明確な態度は示されていなかったらしい。したがって、東軍からの孝景に対する交渉は延々と続いた。



目次へ  前ページへ  次ページへ