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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    一 京都の合戦
      乱の終息
 文明二年からは両軍に寝返りが続出し、武田氏でも信賢の弟元綱が西軍に走って、同三年正月安芸分郡の郡司を殺したが(『萩藩閥閲録』巻五八)、若狭では離反の動きは確認されない。当時最も耳目を驚かした朝倉氏の東軍帰降については後述する(本節二参照)。
 このように寝返りが相つぎ、戦線が地方に拡大するものの、京都では厭戦気分が広まっていった。文明四年正月十八日、武田国信が自邸で月次和歌会を催しているのも(『草根集』)、その表われであろう。そのうち文明五年三月に山名持豊が、五月に細川勝元が相ついで没するといっきに和平気運が高まり、翌六年四月、山名・細川両家の新しい惣領山名政豊・細川政元の間で講和が結ばれた。同年閏五月には一色義直の嫡子義春に丹後守護職が返付されたため、これに抵抗する武田・細川家臣と一色勢との間で合戦となったが(『雑事記』同年閏五月十五日条)、九月には武田氏の宿老逸見宗見が自害しており(『実隆公記』同年九月十六日条)、武田・細川方が敗れて撤退したものと思われる。以後武田氏が丹後奪還に執念をみせ、細川氏の協力のもと出兵を繰り返すことは後述する(本節五参照)。
 文明六年の講和に加わらなかった西軍の中心人物大内政弘も、同九年十月には周防以下四か国守護職などを安堵されて帰国し、ここに一一年に及ぶ応仁の乱が終わるのである。
 この乱で朝倉・武田両氏はそれぞれ「西方張本」「東大将」とよばれ、京都各所での合戦において顕著な活動をみせたが(『雑事記』応仁元年六月二日・文明四年正月二十五日条)、途中寝返った朝倉氏にとってこの乱は戦国大名に飛躍する絶好の踏み台となったのに対して、敗戦の続いた武田氏にとっては、むしろ人的損害をもたらしたことの意味が大きかったと思われる。



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