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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    一 京都の合戦
      武田氏の苦戦
 丹後での戦闘が続いていたころ、武田勢本隊はそれまでと同様、洛東方面で転戦することが多く、文明元年五月には近江に帰った京極氏重臣多賀高忠に代わって京都東口の通路確保を命じられ、北白川に城を築いた。翌二年六月から七月にかけて、山科や勧修寺に出陣して西軍と戦ったが、勧修寺合戦では大内軍のために宿老逸見繁経以下二〇〇人もの戦死者を出す大敗を喫した(「醍醐寺新要録」「東寺私用集」など)。九月、武田軍は多賀高忠らとともに如意ケ岳に集結したようであるが(『重胤記』同年九月十三日条)、翌三年三月二十一日に美濃の斉藤妙椿勢との合戦に敗れると、自陣を焼いて東軍の本陣に合流した(『雑事記』同日条)。このように概して苦戦の続くなか、同年六月二日に武田信賢が五二歳で病没し(「宗賢卿記」同日条など)、弟国信が家督を継いだ。



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