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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    一 京都の合戦
      戦線の地方への拡大
 京都での戦闘が沈静化すると、地方での合戦が目につくようになる。越前でも斯波義敏が侵攻して、義廉与党を国外に放逐する勢いを示した(『私要鈔』応仁二年五月二十二日条)。このため閏十月、朝倉孝景は子息氏景を京都に残して下国していった(『雑事記』応仁二年閏十月十四日条)。
 文明元年(一四六九)四月、武田信賢の部将逸見・粟屋・温科らが、細川持賢の家臣天竺孫四郎とともに丹後に討ち入った。西軍一色義直の丹後守護職が信賢に与えられたからである(一郡だけ持賢が得る)。このため山名持豊は、但馬から垣屋平右衛門尉らの率いる援軍を送り込んだ。武田勢と天竺は、垣屋勢の陣取った普甲山(京都府宮津市)を攻め、かえって敗れて天竺が討死したりしたが、丹後守護職がこのあと一色氏に返付される文明六年閏五月ごろには、武田・細川勢が丹後をほぼ制圧していたと思われる(同 同年閏五月十五日条)。



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