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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    一 京都の合戦
      西軍の反撃
 八月二十三日、大内政弘が大軍を率いて入京し、おおいに勢いづいた西軍は攻勢を強め、九月一日に武田勢の守る三宝院に猛攻を加えた。この戦いで武田信賢の弟元綱の奮闘があったものの、結局西軍が武田勢を破って三宝院を焼くなど、各地で東軍を圧倒した。今や東軍を京都の東北隅に封じ込める形になった西軍は、花の御所の東に隣接する要衝相国寺の奪取をめざした。対する東軍は、相国寺に勝元の重臣安富らを入れるとともに、高倉御所・烏丸殿・三条殿に防禦線を敷き、武田信賢勢は京極勢とともに高倉御所・烏丸殿の守備にあたっていた。十月三日、西軍に内通した相国寺の僧が寺に火を付けると、これをみた信賢勢らは敵が相国寺に乱入したと思い出雲路に退却した。相国寺では両軍が総力を挙げてぶつかる白兵戦が展開された。同寺の陣にいた武田国信(信賢の弟)は仏殿焼け跡から攻め込んだ大内軍と激突し、赤松勢とともに懸命に防戦してかろうじて敵の乱入を阻止した。この二日間にわたる相国寺合戦が双方に甚大な被害をもたらしたこともあって、以後本格的な戦闘はみられなくなる。戦局の膠着状態は翌二年になっても続いたが、武田勢は七月に吉田社、八月には山科・醍醐から勧修寺・深草方面にそれぞれ兵を展開している(『山科家礼記』同年七月四・五日・八月十四日条、『後法興院記』同年八月十四日条など)。
図40 応仁の乱関係図

図40 応仁の乱関係図




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