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 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    一 京都の合戦
      朝倉孝景の奮戦
 六月、それまであいまいな態度に終始していた足利義政が山名討伐の命を出し、西軍諸将に帰降をよびかける御内書を出すと、動揺した斯波義廉は山名の陣を出て自邸に戻った(『私要鈔』同年六月九日条)。しかし義廉は御所出仕を許されず、降参するなら朝倉孝景の首を取ってくるよういわれて屋形に引き篭もってしまった(『雑事記』同年六月十三日条)。この間朝倉は、六月十四日に八〇人余の武田勢を二条で待ち伏せして白井備中ら二四の首を取るなど(『私要鈔』同年六月十五・十七日条)、狼狽する主君義廉を尻目に広く勇名を馳せた。義廉は結局西軍にとどまったため、七月三日から細川・武田らの東軍が義廉邸を激しく攻めたてたが、朝倉・甲斐らは二〇日余にわたってこれをしのぎ切った。



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