目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏
    一 京都の合戦
      二大陣営の形成と乱の勃発
 応仁元年(一四六七)におこった応仁の乱は、幕府の実力者山名持豊(宗全)と細川勝元の対立を軸に、将軍家や管領家斯波・畠山氏の内紛が絡むものであった。斯波家では義廉・義敏両派の対立が深まるなかで、前者は山名持豊を、後者は細川勝元をそれぞれ頼った(三章六節四参照)。なお甲斐・朝倉・織田以下主要家臣のほとんどは義廉方に属し、義敏に従ったのはごく一部であった(表41)。畠山家では持国が甥の政長を養子にしていたが、あとで生まれた実子義就に家督を譲ったため、政長・義就両派が争うこととなり、持豊が義就方、勝元が政長方をそれぞれ支援した。将軍家では、男子のなかった足利義政が弟義尋を還俗させて義視と名乗らせ養嗣子としていたところ、正室日野富子が義尚を生んだ結果、義視を支持して富子やその兄日野勝光らを牽制しようとする勝元と、日野兄妹から支援を求められた持豊の対立がいっそう深まった。こうして文正元年(一四六六)ごろには、山名持豊と細川勝元の二大陣営が明瞭な輪郭を現わしてきた。

表41 応仁の乱の東軍・西軍の構成と兵力

表41 応仁の乱の東軍・西軍の構成と兵力


写真175 上御霊社(京都市上京区)

写真175 上御霊社(京都市上京区)

 なお武田氏が細川陣営に属したのは、瀬戸内海地域の支配や対外貿易をめぐって大内氏と競合関係にあった細川氏が、大内氏の本拠周防に隣接する安芸の分郡守護職をもつ武田氏を積極的に支援していたからである。
 管領職を解かれ屋形の明渡しを命じられた畠山政長は、応仁元年正月十七日上御霊社に陣取り、翌日ここに畠山義就軍が押し寄せて戦端が開かれた(「応仁記」、以下注記のない限り同書)。この上御霊社の戦いは義就方勝利のうちに翌十九日朝終息したが、五月に入ると遠江・尾張・越前に斯波義敏勢が侵入するなど、各地の山名方分国で細川与党が行動をおこした。若狭では逆に山名方の一色氏牢人が蜂起したため、武田信賢が下国してこれを放逐し、五月二十一日上洛している(『後法興院記』同日条)。こうしたなかで両陣営は兵を続々と京都に集め、都大路には緊迫した空気がみなぎった。花の御所(幕府)を本陣とする細川方は東軍、西側の持豊邸を本陣とする山名方は西軍とよばれた。両軍の兵力は、合わせて二〇数万にも及んだ。
 戦いの火ぶたは、五月二十六日午前四時、東軍によって切られた。武田勢は西陣の大手南にあたる実相院に配され、舟橋の北を攻撃することになっており、戦闘開始と同時に西軍と正面から激突した。一方、西軍に属した朝倉・甲斐ら斯波義廉勢は、細川勝久邸の攻撃にあたった。東軍はここに京極勢を援軍として送ったが、朝倉孝景は馬から飛び降りて自ら敵五、六人を切り伏せ、甲斐・織田らも三七人を討ち取って京極勢を敗走させた。しかし翌日赤松勢が救援にかけつけると、戦い疲れた斯波義廉勢は廬山寺の西まで追い立てられた。こうして両軍とも決め手を欠きながら、やや東軍優位のうちに戦闘は二日間で小休止となった。



目次へ  前ページへ  次ページへ