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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
     四 越前守護斯波家の分立
      文正の政変
写真174 足利義政画像

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 文正元年九月六日、斯波義敏父子・伊勢貞親父子・蔭凉軒真蕊ら反義廉派の八名は、突然京都から没落した(『雑事記』同年九月七日条、『私要鈔』同年九月七日条)。義敏が政界に復帰してわずか一〇日余のことである。これは、足利義視の失脚画策や斯波義敏の復権工作など一連の伊勢貞親らによる陰謀に憤激した反貞親派の山名勢が、密かに貞親派の打倒を企て挙兵しようとしたのを察知したための行動であった。この文正の政変は一日にして終わった。貞親派の逃走を知った山名・朝倉氏らの軍勢は、再び洛内の土倉・酒屋を襲撃して掠奪と殺傷を繰り返した。これを機会に随所に土一揆も蜂起した。
 いったん近江へ逃亡した貞親・義敏らは、そののち遠江へ没落したらしい。幕府は両人をその落着在所において殺害するようにとの命令を諸国へ下すとともに、伊勢氏党類を幕府から追放した(『私要鈔』同年九月十一日条)。山名宗全の威勢に押されての処断であった。文正の政変後、山名宗全はいちだんと発言力を増し、九月十四日には斯波義廉とともに幕府に出仕した(同 同年九月十六日条)。同時に宗全は畠山義就を支援して管領であった畠山政長を追い落とすと、翌二年正月八日に斯波義廉を管領職に就かせた(『雑事記』同年正月十一日条)。
 こうした山名宗全の急激な勢力増大に強い危惧の念を覚えたのは、三管領の一人細川勝元であった。この時期に幕府内部で生じていた将軍職の継承問題について、勝元は将軍足利義政と弟義視との対立を和解させて両者を支援していた。しかし義政の夫人日野富子はこれに対抗する姿勢を示し、実子義尚とともに山名方に走った。このような足利将軍家の分裂をはじめ、斯波氏も義敏派・義廉派に、畠山氏も政長派・義就派の両派に分かれ、前者は細川方、後者は山名方に属することになった。やがて諸大名もそれぞれ細川・山名方のいずれかに分かれることになり、かくして両派はきたるべき応仁の乱へと陣営を固めていくことになった。



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