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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
     四 越前守護斯波家の分立
      斯波義敏の守護職再任
 越前の守護職を剥奪され周防国の大内氏に身を寄せていた斯波義敏は、この間、赦免と帰洛を将軍家に願い出ていた。寛正四年十一月、義敏の帰洛はいったん決定したものの実現せず(『雑事記』同年十一月十九日条)、同六年十一月にも再び義敏赦免について問題化したが、甲斐・朝倉両氏の強い反対によって阻止された(『私要鈔』同年十一月二十日条)。これら義敏の赦免と帰洛の工作を背後で進めていたのは、将軍足利義政の寵臣として幕府政所執事を勤め義敏とは妾同志が姉妹にあたる伊勢貞親や、義敏の子松王丸の入寺している相国寺の蔭凉軒真蕊らであった。やがて、義敏の強い願望による運動と貞親・真蕊らの工作が功を奏して、その年の十二月に帰洛がついに実現し、義敏は九州博多から上洛して晦日に将軍に参賀した(『雑事記』同年十二月晦日条)。そして、翌文正元年(一四六六)七月二十四日には斯波義廉は退けられ、義敏に斯波家の惣領職が譲渡されることになる。
 これに対し、義廉を支持する四職の山名・一色氏および土岐氏ら守護たちや、甲斐・朝倉氏ら家臣たちは強い反発を示した(同 同年七月二十三・二十五日条)。朝倉の被官たちや、義廉に娘を嫁がせようとしていた山名宗全の軍勢は、洛内の土倉・酒屋を襲って乱妨を働いた。土倉・酒屋に貞親配下の者が多かったからである。しかしこうした状況のなかでも義敏の復権は着々と進められ、八月二十五日には義敏に越前・尾張・遠江の三か国拝領の将軍家御判が与えられ、義敏と父親の持種・弟の竹王の三人が幕府に出仕する(『私要鈔』同年八月二十六日条)。こうして義敏は守護職に再任され、これをきっかけに洛内は合戦の噂が飛び交う不穏な情勢となっていった。



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