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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
     四 越前守護斯波家の分立
      朝倉孝景の台頭
 関東から上洛後、孝景は越前における勢力の拡大にも努めていった。長禄三年に始まる天候不順は翌寛正元年に及び、同二年にかけて全国的な大飢饉を発生させ、京都だけで死者八万二千人と記録され(『碧山日録』同年二月晦日条)、越前でも河口荘内で餓死者九二六八人、逐電(逃亡)者七五七人と報告されている(『雑事記』同年七月二十日条)。このような戦乱と飢饉の続くなか、大乗院によって河口・坪江荘に田楽頭段銭が課せられた。百姓はこれに強く反対して減免を要求する。しかし、大乗院は朝倉氏に段銭徴収の任を請け負わせこれを強行しようとし、孝景により弟の慈視院光玖ら約四〇人が越前に派遣された。これに驚いた百姓は大乗院に嘆願書を提出して、最初に申し出た一〇〇貫文の減免が聞き入れられず朝倉氏に請け負わせるというのであれば、今年も来年も二〇〇貫文を進上するので朝倉氏を徴税使にすることだけはやめてほしいと訴願したのである(同 同年十月二十一日・十一月一日条)。『雑事記』にこののち河口・坪江荘の代官職に関する記事はみえなくなることから、朝倉氏はこのころには坂井郡など越前北部における諸荘園の代官職を請け負うようになっていたと考えられ、在地に対する姿勢はかなり強硬なものであった様子がうかがわれる。
 しかし、支配を直接受けることになる在地の百姓や興福寺に属し実際に年貢を得ていた学侶たちは、朝倉氏のこうした強硬な支配に対して強い抵抗を示した。寛正五年五月、細呂宜郷内では安清ら三名を首謀者とする百姓たちが朝倉氏の支配に抵抗した。ところが同郷内の長慶寺は、反乱の拠点となった
写真173 「大乗院寺社雑事記」<BR>(寛正二年七月二十日条)

写真173 「大乗院寺社雑事記」
(寛正二年七月二十日条)

と思われる滝村に放火し、安清ら三名を召し篭めた(『私要鈔』同年五月二十二日・六月二十六日条)。この長慶寺による行為を孝景は黙認しようとしたが、寺領へ押妨を受けたことになる学侶たちはその責任について孝景を追及し、彼の名を呪詛した(『雑事記』同年六月二十四日条)。この年の八月十日、学侶の訴えを容れて孝景は告文(神祇に対して誓う文書)を提出しており、その内容は河口・坪江荘において「悪行被官人」を支持せず違乱を取り締まるというものであったと思われる(『私要鈔』同年八月四・五・十日条)。孝景による支配はこうした抵抗を受けていた。しかし、学侶たちが告文を提出すべき人間は孝景であるとの認識をもっていたことは、越前北部において朝倉氏が、かつての甲斐氏に代わり在地支配権をもつようになっていたことを示している。
 翌六年、斯波氏の領国の一つである尾張国では、幕府料所の青山荘(愛知県豊山市)に対して守護義廉が段銭を課そうとし、また同国守護代の織田氏も乱入し放火するという乱妨が行なわれていた。このとき幕府は、現地での段銭免除の実行や違乱停止の活動について甲斐氏ではなく朝倉孝景に指示している(『親元日記』同年四月七日条)。このように、朝倉氏は越前北部における在地支配を固めながら、次第に守護代甲斐氏のもつ勢力に匹敵する実力をそなえるようになっていたと思われる。
 一方甲斐氏は、長禄三年八月十二日に甲斐常治が急死したのち、守護代職はその子敏光の越前在陣中には暫定的処置として孫の千菊丸に譲渡され(『雑事記』同年八月十三・十八日条)、敏光が帰京後に改めて補任を受けた。そののち寛正五年正月二十日、敏光から再び守護代職は千菊丸に譲渡され、翌六年十二月ごろ千菊丸は元服して信久と名乗る。甲斐氏も同五年には坪江郷藤沢名を大乗院雑掌に沙汰付けるよう守護から命じられるなど守護代としての活動を行なっており(資2 広島大猪熊文書六号)、府中近辺や敦賀郡を拠点としながらその勢力を保持していた。



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