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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
     四 越前守護斯波家の分立
      斯波義廉の越前守護職就任
 越前守護職は、長禄三年(一四五九)斯波義敏が周防国大内氏のもとに隠退したのち、甲斐氏に擁立されたその子松王丸が継承していたが、寛正二年(一四六一)九月、幕府は松王丸を退け京都相国寺に入寺させ、かわって足利氏の一族渋川義廉を守護職に就かせる。渋川氏は鎌倉期に足利泰氏の子義顕が上野国渋川荘(群馬県渋川市)に土着して始まる(図28)。室町期には代々九州探題を勤めた家系でもあったが、義廉の父義鏡は幕府の命を受けて鎌倉府の内乱を鎮めるために奮戦して功績があった。しかし、斯波家の遠縁にあたる義廉が斯波家の家督を継承したことはやがて斯波家を分裂させ、応仁・文明の乱の一因となっていく。
 寛正二年九月二日、幕府は長禄合戦直後に死去した常治に替わって守護代となった甲斐八郎二郎(敏光か)を出仕させ、関東出陣中の朝倉孝景にも上洛するように伝えよと命じており(『雑事記』同日条)、両者に渋川氏の補佐役を勤めるよう指示したものと思われる。十月十六日渋川氏は室町将軍に参賀して初めて義廉と名乗り、治部大輔に任ぜられた。その翌日、朝倉孝景は将軍から越中・越前両国で七か所の地を充行われており、合わせて越前守護代職について孝景の就任が問題となっている(同 同年十月十六・十七日条)。このことは、甲斐氏の擁立した松王丸を廃し義廉に守護職が補されるにあたり、孝景による何らかの工作が行なわれていた可能性を感じさせる。孝景は関東から上洛後はほとんど在京して甲斐氏とともに義廉を補佐していたものとみられるが、この時点では守護代職に就任してはいない。



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