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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
    三 長禄三年の合戦
      長禄合戦と朝倉孝景
 長禄元年に始まり同三年に及んだいわゆる長禄合戦は、越前への支配権を強めようとする将軍の意図を背景に、それを追認する形で守護代甲斐氏らにより守護義敏を無視した領国支配が進められたことに対し、義敏と国人が結束してそれに対抗する形で展開していった。そして甲斐方の勝利のうちに合戦が終結して以降、例えば河合荘では、守護被官人と称される武士たちの違乱により醍醐寺三宝院による直務支配は崩され、応嶋・加賀嶋氏が代官職を請け負うようになっていく(資2 醍醐寺文書一〇〇・一一二号など)。長禄合戦を乗り切って存続した武士や国人たちが、こうして国内の諸荘園の代官職を獲得していくなかで、徐々に在地に対してその支配を浸透させ勢力を拡大しつつあったのである。朝倉孝景もまた、そうした武士の一人であった。
 孝景は越前朝倉氏初代広景から数えて七代目にあたり、正長元年(一四二八)四月十九日に朝倉教景(家景)の長男として誕生した。幼名を小太郎といい、元服して教景と称し、宝徳二年(一四五〇)に父家景を亡くしたあと越前守護斯波義敏の「敏」の偏諱を受け孫右衛門尉敏景と名乗り、祖父の教景(法名心月)の後見のもと嫡子として成長した。長禄二年十一月朔日、彼は甲斐敏光らとともに越前に下国し、翌三年五月十三日の敦賀城合戦後には足羽郡北庄に下着したらしい(「日下部系図」)。さらに八月十一日の決戦では一乗谷から出陣し足羽郡和田荘で戦ったようで、「当国合戦の事は、大略此方つかまつり候」とあるように、決戦を勝利に導いたのはひとえに朝倉氏一族の活躍によるものとしている(「朝倉家記」所収文書)。しかし先にふれたように、朝倉氏は在国庶子家と在京惣領家に、また国人堀江氏も惣領家と庶子家に分かれて戦っており、この合戦は武士や国人の同族内部における対立・抗争をもはらむ複雑な様相をみせながら進行していたのである。そしてこの長禄合戦によって、孝景は堀江氏のみならず同族内部の反対勢力をも一挙に排除し、惣領家の越前における地歩を固めることになった。これ以降、二宮氏が大野郡一帯を、甲斐氏が府中近辺や敦賀郡を中心としてそれぞれ勢力を保持していくのに対し(本章一節参照)、朝倉孝景は一乗谷を拠点に足羽・坂井両郡においてその基盤を固めていくことになる。そして、長禄三年十一月の河口荘山荒居代官職補任状の充所に「朝倉弾正左衛門教景」とあるから(『尋尊大僧正記補遺』一)、長禄合戦後まもなく孝景は義敏を忌避して再び教景の名に戻り、孫右衛門尉の通称を弾正左衛門尉の官途名に改め、朝倉家一家中における覇者としての意識を鮮明にしたものと思われる。長禄合戦こそ孝景にとっての一大転機であった(寛正五年大乗院の呪詛により教景は孝景と再び改名する)。



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