こうした幕府・甲斐方の攻勢に対して、近江に滞陣していた斯波義敏は関東出陣のための軍勢をにわかに越前に差し向けた。五月十三日には、二〇〇人の兵が守っていたという甲斐方の敦賀城へ攻撃を始める。これに対し、将軍は御内書を発して義敏勢の退治を近江の小串・熊谷氏らに命じており(「朝倉家記」所収文書)、彼らは甲斐氏救援のため敦賀城へ出陣した。これを聞いて敦賀城の甲斐方は城を出てともに義敏軍を迎え討ち、瓜生孫左衛門尉や山内駿河守らを討ち取った。このため一万余の兵を擁していたという義敏方は、八〇〇人余の戦死者を出して退散したという(『碧山日録』同年五月二十六日条)。さらに、越中・能登・加賀の軍勢も将軍からの命令を受け(「朝倉家記」所収文書)、五月二十五日、これと呼応するかのように甲斐方への合力と号して北から越前へ乱入した(『雑事記』同年六月一日条)。こうして五月二十七日に甲斐方の軍勢によって府中が押さえられると(資2 醍醐寺文書九七・九八号)、堀江方は越前からの撤退を余儀なくされた。また、幕府の命を無視し関東征討軍を甲斐方の敦賀城攻撃に差し向けかえって大敗した義敏は将軍足利義政の怒りをこうむり、守護職を剥奪されて周防国大内氏のもとに隠退させられる。守護職には、甲斐氏に擁立されて義敏の子の松王丸(三歳)が就いた(『碧山日録』、「応仁略記」)。 |