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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
    三 長禄三年の合戦
      疋壇における和議不調
 翌長禄三年(一四五九)に入ると、両者の合戦は越前にとどまらず、尾張国など斯波氏の領国全体にまで拡大する様相をみせはじめた(『私要鈔』同年正月十四日条)。そこで幕府は、これが大乱に発展することを避けるため両者の和睦を図ることにした。二月に入って、真西堂(蔭凉軒真蕊か)が和睦のための上使として敦賀郡疋壇(疋田)に派遣される。しかし、義敏方の武士・国人たちがともにこの和議に反対したため調停は不調に終わり、上使はやむなく帰京することになった。
 この状況を知った甲斐方は憤激し、一味して子々孫々にいたるまで義敏を守護と認めないことを連署し、幕府政所執事の伊勢貞親に提出したという(「朝倉家記」所収文書)。こうして合戦はただちに再開された。甲斐方は常治の子敏光らが越前に入国して堀江方を討ち、二月下旬には越前の中央部あたりにまで兵を進めた。三月には改めて甲斐常治の守護代職が守護義敏ではなく幕府によって任命されており、幕府も守護義敏を無視し守護代甲斐氏による越前支配を正式に認めるなど、甲斐方を支援した(『私要鈔』同年二月二十二日条、『雑事記』同年三月十九日条)。



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