目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
    二 長禄二年の合戦
      義敏・堀江方の抵抗
 直務の奉書を携えてさっそく大乗院の直務使は越前へ下向した。ところが堀江利真は、越前国内ではどこの荘園領主であっても守護義敏の判形(署名・花押のある文書)による許可がなければ直務支配を認めるわけにはいかないと強く抵抗を示した。結局この件は、大乗院が溝江・新庄・関・王見・兵庫の五郷を直務とする代わりに、荒居・新・細呂宜の三郷の代官職については堀江氏に与えるという妥協案で落着したらしい(同 同年十月二・二十四日条、『私要鈔』同年十月二十五日条)。こうした形で堀江氏ら国人はなお基盤を確保しつつ越前支配を保持しようとしていた。十一月一日には甲斐敏光らの軍勢が近江の海津を経て越前に向かったが、堀江方は越前入国を阻止し甲斐方を再び海津まで退けたし(『私要鈔』同年十一月二・十一日条)、また加賀から侵入して金津を焼き払い堀江氏の城を攻める甲斐勢に対しても、堀江方は甲斐の舎弟以下を討ち取り応戦した(同 同年十二月五日条)。
 このような越前の状況に対して、幕府は十一月下旬に守護義敏に関東追討に向かうよう命じており、越前国人の後ろ盾となっている義敏を遠ざけて、越前へ攻撃を続けようとする甲斐方を支援しようとしたものと思われる。しかし義敏は、幕府に対して甲斐氏へも関東出陣を命ずるようにと要求し、近江の小野に滞陣したまま動こうとはしなかった(同 同年十二月朔日条)。



目次へ  前ページへ  次ページへ