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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
    二 長禄二年の合戦
      将軍親政と甲斐氏
 将軍義教が播磨守護の赤松満祐に殺害された嘉吉の変ののちの将軍義勝と義政の幼少期は、これを支えるための管領政治が復活をみた時期であった。しかし義政が青年期に達した長禄年間ごろからの管領家の斯波氏の衰退や細川・畠山両家の政争のなかで、義政を中心とした将軍権力の強化が進められ、将軍親政の姿が明瞭となってきた。その執政の一つが、「寺社本所門跡領以下」の不知行地の「還付政策」であった(『雑事記』長禄二年三月十七日条)。例えば越前においては、長禄二年四月に足羽郡社荘・得光保が京都北野社に還付されたのをはじめ(資2 北野神社文書七・八号)、この年の合戦により甲斐方の代官が逃亡し興福寺領である坂井郡河口荘の諸郷の多くが「空郷」となると(『私要鈔』同年九月十四日条)、大乗院もただちに河口荘の還付を幕府へ申し出た(『雑事記』同年九月二十一日条)。同様に、吉田郡河合荘も醍醐寺三宝院へ還付される(資2 醍醐寺文書一〇一・一〇二号)。幕府の「還付政策」を背景として、全国の荘園のなかには、領主である京都・大和の大寺社などがそれまで非法を行なっていた従来の代官を廃し、自らが新たに任命する代官によって直接管理を行なう直務支配となるものがみられるようになっていった。
写真172 足利義政袖判御教書(称念寺文書)

写真172 足利義政袖判御教書(称念寺文書)

 そして幕府はこの政策によって、寺社・本所領保護を表看板としながら守護領国に対する影響力を強めようとしていたのである。例えば越前では、細呂宜郷代官職に幕府の要人である飯尾為数が補され、またその為数と伊勢兵庫助が「上使」として現地へ下向してくる。さらに、幕府・将軍によって「越前国領地」が京都の相国寺蔭凉軒へ、丹生郡糸生郷山方が北野社へ寄進された(『蔭凉軒日録』同年十一月二十五日条、資2 北野神社文書一〇号)。また竜沢寺・称念寺・洞昭庵などの国内の寺院は、寺領安堵を幕府へ申請するようになっていった(資4 龍澤寺文書一九号、称念寺文書二号、松樹院文書二号)。
 合戦のさなかにある越前に対しても、このように幕府は介入を進めていった。そしてこの幕府の介入は、越前を制圧している守護義敏方の国人にとって在地への支配を制限することになったものと考えられる。一方、甲斐・朝倉・織田氏は九月十九日にそろって将軍義政のもとに出仕しており、同月二十五日に甲斐氏が幕府から直務を認められた大乗院の使者に向かって「目出候」と述べたのは(『雑事記』同年九月二十五日条)、甲斐氏などの諸氏が将軍のこうしたやり方を追認せざるをえなかったことを示している。



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