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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
    二 長禄二年の合戦
      甲斐方の敗北
 洛内での戦闘後ひとまず和睦が成立し、代官職が守護代甲斐方の諸将から返されることになると、国人たちは本来代官であった土地の返付を求めてきた。例えば、堀江氏は興福寺領である坂井郡坪江郷藤沢名の代官職について、杉江氏は同郷鶴丸名代官職についてそれぞれ返付の要求を行なった。しかし、幕府・将軍の意向と守護義敏の意向が対立するなど代官職返付は順調には進まず(『雑事記』長禄二年三月二十五日条)、両者の対立は何ら解消されないままの状態が続いていった。
 当時、関東では鎌倉公方の足利成氏が勢力を伸ばし幕府の命に服さなかったため、しばしば幕府は関東追討軍を派遣していた。長禄二年(一四五八)六月、斯波義敏と甲斐将久にも関東追討の命が下るが、両者がこれに難渋を示して動かなかったのは(『私要鈔』同年六月十九日条)、両者にとって越前をめぐる状況がかなり緊迫したものになりつつあったことをうかがわせる。そしてこの年の七月、義敏・国人方と幕府・甲斐方との代官職返付をめぐる対立は解消されないまま、ついに越前国内において両者による最初の合戦が勃発することになった。この戦闘は甲斐・朝倉・二宮氏ら甲斐方の勝利に終わった。しかし翌八月、義敏方の国人堀江利真が京都から越前に入国し、甲斐方の敦賀代官大谷将監らを討ち、甲斐八郎五郎・同周防守らを越前から追うなど勝利をおさめた。そして九月以降には嶋田平左衛門や「いくのを」(飯尾か)氏らも京都から入部し、瓜生・阿波賀氏などの国人とともに荘園諸職を獲得した。また、小守護代には義敏によって堀江利真・池田勘解由左衛門尉が任命されるなど(「北野神社引付」)、越前は義敏方の国人たちによって制圧されることになった(『私要鈔』同年八月二十三日・十月二日条)。



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