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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
    一 守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立
      義敏方と甲斐方の抗争
 翌長禄元年(一四五七)、将軍義政は両者の争いに対し甲斐氏に有利な裁定を下した。ここで義敏方と甲斐方との対立の原因についてみると、支流の義敏が斯波家の遺跡を継承するさいに甲斐常治の尽力大であったのに、義敏はその登用の恩を忘れて常治の弟近江守を甲斐の家督につけようとしたことから義敏を非としたり(「文正記」)、君臣の道を乱した前美濃守甲斐入道の過分を義敏が改めようとしたのであるとして甲斐入道を非とするなど(「応仁略記」)、義敏個人と将久個人との私憤によると説くものもある。しかし将軍の親裁を受けるまでに深まった両者の対立は、実は以前から甲斐方の諸将が越前国人の有する荘園の代官職を獲得していたことに原因があった(本章一節四参照)。国人たちは義敏の守護職就任を契機に、義敏につくことによって失った代官職を回復しようとしたのである。義敏にとっても国人の権利を回復し彼らの支持を得ることは、越前における守護代甲斐氏の勢力を押さえていく一つのてだてであった。両者の対立はこうして激化していたのである。
 守護義敏は、将軍の親裁で自らに有利な判決が出ることに大きな期待を寄せていたことと思われる。ところが結果は、守護代甲斐氏に有利となる裁定が下された。代官職のなかには幕府の要人である大館氏などが獲得していたものもあり、また当時の幕政において政所執事として多大な実力を有していた伊勢貞親が甲斐将久の妹を妾としていたという私情も影響したのかもしれない(「応仁記」)。この裁定に憤った守護義敏は、同年十一月以前に斯波家の墳墓の地である東山東光寺に出奔した。そして十一月四日には、東光寺から越前の有力国人である堀江石見兄弟二人や斯波氏の根本被官である嶋田兄弟二人・細川兄弟二人・能宇(由宇)兄弟三人ら計二七名の「三ケ国侍共」が出動し、洛内において乱妨を働いた。これに対して幕府は、甲斐氏をはじめ朝倉・織田および山名勢に鎮圧を命じ、義敏方の兵を一人も残さず討ち取らせたという(『私要鈔』同年十一月五日条、『雑事記』同年十一月十一日条)。
 しかし、こうした事態が繰り返されることを憂慮した幕府は幕臣を集めて相議し、斯波家は幕府の宗臣であり、この禍根により内乱に発展することを避けるため甲斐氏に和睦を命じることになった(『碧山日録』長禄三年五月二十六日条)。翌長禄二年二月二十九日とりあえず両者の和睦は成立し(『雑事記』同年二月三十日条)、義敏は幕府に出仕することになった。三月に入って義敏方の「披官所領」はすべて「元の如く」安堵されるとみえているように(同 同年三月二十五日条)、和睦の条件として甲斐方は義敏方へ所領を返付することになったことがうかがわれる。しかし、守護代甲斐方はこれまでどおり越前支配を強めようとする姿勢を崩してはおらず、事態はやがて両者による越前一国の支配をかけた合戦へと展開していくことになる。



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