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第三章 守護支配の展開
   第六節 長禄合戦
    一 守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立
      斯波義敏の越前守護職就任
 永享五年(一四三三)十二月二日斯波義淳が死去すると、守護職は弟の義郷に継承されるがその義郷も同八年九月三十日死去した。このため、義郷の子千代徳がわずか二歳で家督を継ぎ、宝徳三年(一四五一)元服して義健と名乗った(『康富記』同年十一月二十一日条)。しかし、義健もまた翌享徳元年(一四五二)九月一日相ついで死去した。一八歳の若年で死去した義健には嗣子がなかったため、支族である斯波持種の子息義敏がその遺跡である越前・尾張・遠江三か国守護職を継承し、同年十一月、従五位下・左兵衛佐に任ぜられる(「斯波家譜」)。義敏は永正五年(一五〇八)七四歳の死没であるから(『実隆公記』同年十一月二十二日条)、守護職継承時は一八歳であった。これに対し守護代の甲斐美濃守将久は、応永二十七年(一四二〇)父将教の没後その職を継ぎ、永享年中に入道して常治と称しているから、義敏の守護職継承時には少なくとも五〇歳代を迎えていたと思われる。
 越前守護斯波家の治世短命が続くなか(本章一節参照)、領国支配の実権は守護代甲斐氏が掌握しており、傍系から守護職に就いた義敏と甲斐氏との間には徐々に対立が深まりつつあった。やがて康正二年(一四五六)五月、両者の反目は将軍の親裁を受けることになる(「師郷記」『史料綜覧』)。



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