目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
    二 朝倉氏歴代の領国支配
      足利義昭の来越
 永禄八年、将軍足利義輝が臣下の松永久秀に殺されると、弟の興福寺一乗院門主覚慶は還俗して義秋と名乗り、翌九年には松永久秀の追跡を逃れて近江から若狭に入った。しかし若狭は当時武田義統・元明父子が両派に分かれて抗争していたため(本章四節二参照)、義秋は武田氏を見限って越前朝倉氏を頼り敦賀まで居を移したが、朝倉氏もまた多事多難であった。すなわち、永禄十年に坂井郡の国人堀江氏が加賀一向一揆の後援を得て反乱をおこしたのである。しかし堀江氏の反乱もおさまったので、十一月二十一日ようやく足利義秋を一乗谷安養寺に迎えた。

表43 朝倉氏惣領の歴代

表043 朝倉氏惣領の歴代



写真186 「朝倉義景亭御成記」(部分)

写真186 「朝倉義景亭御成記」(部分)

 義景はその月の二十七日に足利義秋の御所に伺候した。その出仕の盛儀は、幕府全盛期の管領出仕の儀式にも劣らない盛大さであったという。この返礼として翌十二月二十五日には義秋の義景屋形御成り(訪問)となった。義秋がいまだ征夷大将軍の官位になかったので非公式の訪問ではあったが、辻固(警護)の次第や献上の進物などは将軍訪問の例に異ならず、式は酒肴一一献にまで及んだ。翌十一年三月八日には義景の母公が二位の尼に任ぜられ、その祝宴も酒肴一一献まで行なわれ、終日終夜に及ぶ遊宴であった。そして三月下旬には朝倉屋形の北東にあたる風光絶佳な客館南陽寺に義秋を招いて終日遊宴が催され、歌の会も開かれた。
 義景が義秋の歓待に努めていた同十一年四月上旬に、二条殿が征夷大将軍の院宣を帯して京都から下向してきた。義秋は一乗谷安養寺においてこれを迎えた。晴れて十五代将軍となった義秋は、朝倉義景屋形において義景の加冠によって元服し義昭と改名した。五月十七日は足利義昭の将軍としての最初の朝倉屋形訪問であった。酒肴は初献より一七献まで続けられ、献を重ねるたびごとにさまざまな進物が献ぜられた(「朝倉始末記」)。三献ののち朝倉同名衆が御礼に伺候し、四献ののちに能興行、一七献がすんだのち朝倉内衆のなかの年寄衆が御礼に伺候するという盛儀であった。そして六月二十一日には義景が将軍義昭の御所に召された。
 朝倉義景の将軍足利義昭への歓待ぶりにもかかわらず、永禄四年に愛妾の小宰相を失い、同十一年六月には嫡子阿君を七歳で失うなど、相つぐ悲報に悲嘆に暮れ優柔不断な性格でもあった義景を頼むに足らずと考えた義昭は、七月に美濃の織田信長のもとへ去った。一乗谷滞在はわずか九か月であった。そして早くも九月、将軍足利義昭を奉じて上洛した信長は義景にも上洛を促してきたが、義景はこれに応じなかったため、朝倉氏と織田氏との宿命的な対立が始まるのである(本章四節四・五参照)。



目次へ  前ページへ  次ページへ