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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     六 若狭の荘園
      山門・寺門領の変化
 若狭における荘園の形成時期、荘園と公領の一国規模あるいは各郡規模での比率、荘園を有する各権門の性格などについては、すでに鎌倉後期の大田文を中心に述べてあるので(一章四節三参照)、ここではその後の荘園・公領の変化を中心に、本節の一〜三でとりあげられた荘園以外を例に概観する。まず、南北朝期さらに室町期の変動のなかで、荘園・公領の領主および地頭がどのように交代していったかをみておきたい。ここで領主というのは本家・領家をさすが、残された史料からは本家・領家の区別がつきにくい場合が多いので、以下においても特に区別していない場合がある。
写真126 三方郡山西郷

写真126 三方郡山西郷

 若狭において山門(延暦寺)・寺門(園城寺)が多くの荘園をもち、神人などを通じて大きな勢力をもっていたことは先述した。幕府は山門・寺門の勢力拡大に警戒心を強めていたらしく、一色範光が守護となってまもなくの貞治六年(一三六七)六月二十六日には、寺門三門跡(円満院・聖護院・実相院)の所領を支配せよとの幕府の命令が範光に出されたという(『師守記』同日条)。降って将軍義教が山門に激しい弾圧を加えた永享六年(一四三四)八月十九日には、越前と同じく若狭にも守護代三方氏が山門領を没収するために下されている(『看聞日記』同日条)。山門・寺門は時としてこのような圧迫を幕府から受けたのであるが、荘園の維持に関してはどうであったろうか。
 遠敷郡安賀(安賀里)荘は、鎌倉期に公文鳥羽氏がみえ、南北朝期には山門子院の金輪院が代官を勤めていた山門領であったが、応安の国一揆では鳥羽氏・金輪院とも一揆方の主力として守護に抵抗したため、一揆鎮圧後に 北野天満宮社に寄進され、同社は応永六年(一三九九)十二月に和泉国で替地を与えられるまで支配している(「北野神社引付」三)。その後はおそらく幕府料所とされたものと思われるが、永享七年には将軍義教に抵抗して自焼した山門根本中堂造営領として荘の年貢が寄進されることもあった。しかしこのとき造営年貢は幕府納銭方の正実房から受け取ることとされており、山門が荘務権(荘の現地支配権)を回復したわけではない(資2 尊経閣文庫所蔵文書三三号)。そして戦国期には、安賀荘は年貢二五〇貫文を幕府に納入する料所として明確に現われてくる(『大館常興日記』天文七年九月三日条など)。また鎌倉期に天台無動寺領三方寺内として現われる遠敷郡志積浦は、文和二年(一三五三)には京都の東岩倉寺(観勝寺)領と称されている(資9 安倍伊右衛門家文書一七・一八号)。その後はよくわからないものの、同浦は山門の支配を離れた可能性が強い。これらは山門から失われた荘園であるが、三方郡の大規模な荘園である織田荘は、付属する山東・山西両郷ともに室町期においても山門門跡寺院である青蓮院の支配下に置かれていたし(『華頂要略』門主伝)、同郡内の前河荘も鎌倉末期より山門別院廬山寺が領家職をもつ荘園として存続した(資2 廬山寺文書)。そのほか遠敷郡鳥羽荘では文明九年(一四七七)に山門金輪院知行分のうち二九〇石が幕府内の「大御乳人様」領に充てられてはいるが(資2 内閣 朽木家古文書一四・一五号)、基本的な支配権は維持していたし、三方郡太興寺は永享五年に南禅寺語心院領とあるものの(資2 尊経閣文庫所蔵文書三二号)、寛正二年(一四六一)以後は山門門跡青蓮院支配として現われる(『華頂要略』門主伝)。このようにみれば、山門は三方郡から遠敷郡東部にかけて基本的には荘園を維持しているということができるのである。
 寺門の荘園については、まず門跡寺院の円満院の支配した大飯郡加斗荘は南北朝期に守護の半済を受けながらも戦国期にも存続しており(資9 飯盛寺文書二号)、同じく円満院領であった遠敷郡瓜生荘は室町・戦国期には寺門門跡寺院の聖護院領となっている(「康正二年造内裏段銭并国役引付」、「政所賦銘引付」文明五年十一月三日)。寺門の荘園であった遠敷郡玉置荘は室町期において寺門支配の史料を見出せず、応永二十一年に三分一地頭職が南禅寺竜華院に安堵されていることなどからみて支配権を失ったものと考えられるが(資2 南禅寺文書二号)、全体としてみれば寺門も荘園を維持しえている。



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