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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    三 若狭の荘園・国衙領と地頭・御家人
      荘園・国衙領の概観
 平安から鎌倉期における若狭の公領(国衙領)・荘園の全貌を把握するためには、文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳案(大田文)が不可欠の史料である(図7)。以下、主としてその内容に即して荘園・国衙領の概要を述べる。
図7 文永2年若狭大田文の田数

図7 文永2年若狭大田文の田数
            注1 応輸田の郡別田数のほかは史料に記された田数を用いた。
            注2 今富名と細工保の応輸田は便宜上すべて遠敷郡に算入した。
            注3 (三か所)とは西津荘・田井浦・津々見保をさす。
            注4 数字の単位は段-歩。
            注5 ユ函12により作成した。

 大田文には、国衙領は六七所領、荘園は三七か所を記す。国衙領六七所領は、青郷・佐分郷など郷名を称するもの、青保・常満保など保名でよばれるもの、重国名・岡安名などの名、加斗加納・佐古出作などの加納(荘園の本免田に付加された国衙年貢の請負地、のちに荘田化する)や出作(荘民が国衙領に出作りしている地、のちに荘田化する)、恒貞浦・友次浦などの浦、宮同松林寺・八幡宮・日吉社などの寺社免田、あるいは多烏田・三方新御供田など、雑多な名称をもつものから構成されているが、それらは各個に国衙の徴税単位として把握されていたものである。本来の国衙領である郷とそののち形成された名や保の関係についてみると、例えば千与次名という名は遠敷郡の志万郷二町八段・富田郷一町四段五〇歩・西郷二町二七〇歩から構成されているが、それら三つの郷において当該田数がいずれも郷を単位とする年貢収納から除かれる除田扱いとされ、千代次名は郷を介することなく国衙に直接年貢を負担している。逆に郷の内部はこのように国衙に直結する名や保など(これらは別名と総称されている)が多くの田数を占めており、本来一二八町七段余の田地をもつ富田郷には千与次名をはじめとして合わせて九五町五段の別名田があり、そのほか寺社田などを除くと郷として年貢を収納する地は六町三段余しか残されていなかった。このことは、十一世紀後半以後旧来の郷を分割しつつ新たな徴税単位として別名が広範に成立してきた事情を物語るものである。全六七所領のうち別名と考えられる所領は少なくとも五三所領を数える(一部未詳のものを除く)。その地域的分布をみると、遠敷郡三九、大飯郡六、三方郡八となり(ただし各郡にまたがるものもあり厳密な区分ではない)、このことは国の中央を占め、国衙所在郡でもある遠敷郡において、郷の分解と別名の形成がとりわけ顕著に進んだことを示している。そしてこれら国衙周辺に成立した別名のなかには、在庁官人として国衙を構成した在地土豪を領主とするものが目立って多いことが注目されており、別名形成の動きのなかに彼らの領主化の動向を看て取ることができる。なおこれら国衙領のなかの応輸田に課された所当の斗代は三斗代から一石代にいたる一四段階に区分されているが、「官米」負担を含む六斗四升八合代の田地が一三五町二段余を占めて田数も最も多く、ほぼ並んで五斗代が一三四町五段、ついで六斗代が一一二町四段余、八斗代が八八町一段余である(以上の田数で応輸田田数の七三パーセント余を占める)。
 一方、荘園について郡ごとの割合をみると表6のようになる。荘園のうち本荘は、遠敷郡の賀茂荘(宮河荘、賀茂別雷社領)、大飯郡の加斗荘(寺門円満院門跡領)・立石荘(九条家領)、三方郡の織田荘(山門常寿院領)・佐古荘(領主未詳)の五荘で、いずれも別に出作・加納と称すべき部分を存している点から、これらはいわゆる本免田に相当するものであり、十一世紀後半以前に成立をみた荘園と考えられる。しかし数も田積も少なく、また遠敷郡に位置するのは賀茂荘のみで、他は大飯・三方郡にあって国の中央部から遠く、出作・加納部分の荘園化も順調には進まなかったことが大田文の記載その他からうかがわれる。そうした点から判断して、十一世紀後半以前の段階における荘園の形成は、むしろ小さな比重しかもちえなかったといえる。

表6 鎌倉期の若狭三郡における荘園の割合

表6 鎌倉期の若狭三郡における荘園の割合

 次に新荘として記載されるものは、遠敷郡の瓜生荘(円満院領)・鳥羽荘(山門領)・安賀荘(山門領)・名田荘(蓮華王院領)・三宅荘(長講堂領)・吉田荘(長講堂領)、大飯郡の立石荘(九条家領)・和田荘(長講堂領)、三方郡の前河荘(日吉社領)・倉見荘(新日吉社領)・向笠荘(伊勢神宮領)の計一一荘である。新荘分の全田数は荘園領全体の四五パーセントに達するが、特徴的事実は、その成立時期が十二世紀後半の後白河院政期に集中していることである。安賀郷・名田郷のように郷自体が荘園化していることからわかるように、本荘の場合とは性質の異なる荘園の形成が急速に進行したのであり、それは在地領主の開発による私領の形成を前提とした寄進地系荘園の成立とみられる。これらの荘園において、しばしば「開発領主」と称される下級の貴族・神官らの在地への積極的な働きかけが目立つことも注目される。
 便補保は、遠敷郡の国富保(太政官厨家領)・恒枝保(室町院領)、三方郡の永富保(法勝寺領)・藤井保(尊勝寺領)・今重保(最勝寺領)・田井保(大炊寮領)の六保であり、いずれも天皇家領といえるもので、十一世紀末から特に十二世紀に成立したとみられる。そのさい受領の貢献が推測されることや、ここでも国富保における小槻隆職のごとき下級官人の「開発」活動があったことが注意される(『福井県史』通史編2 中世)。
図8 中世若狭の主な荘園

図8 中世若狭の主な荘園

 続いて、山門沙汰として一括されているものに、得吉保(尊勝寺護摩堂領)・青山中、遠敷郡の長晴名(天台石泉房領)・太興寺(天台無動寺領)、三方郡の山東郷(天台常寿院領)・山西郷(天台常寿院領)・興道寺(天台四王院領)・菅浜浦・三方寺の九か所がある。このうち山東・山西両郷や三方寺が山門領化したのは鎌倉期かそれにごく近い時期と考えられ、またこれに菅浜浦・太興寺を加えた五か所は、天台座主慈鎮によりまとめられて青蓮院門跡領として伝領された。
 さらに、園城寺沙汰として岩松名および遠敷郡の玉置郷・椙若保の三か所が挙げられている。そのうち玉置郷は、平家没官領が源頼朝により寄進されたものであった。
 以上のいずれの分類にも入れられていない三か所のうち、遠敷郡西津荘は神護寺領、遠敷郡津々見保は関東一円領であり、大飯郡田井浦は当時丹後国志楽荘により押領されていた。
 大田文における公領・荘保などの区分は、嘉禎二年(一二三六)から翌三年にかけて行なわれた国検の結果を反映したものではないかとみられているが、その段階では国衙領に入れられている保や名のうち、それ以後に荘園化したものが若干あることが、大田文の元亨年間(一三二一〜二四)ごろの朱注その他から明らかになる。遠敷郡の太良保(歓喜寿院領、領家東寺)をはじめ正行名(天台霊仙院領)・松永保(天皇家領)、大飯郡の青保(東宮厨家)・加斗加納(寺門円満院門跡領)、三方郡の耳西郷(領家春日社)などの九か所がそれである。これら鎌倉中期以後に成立した荘園に特徴的なことは、多くの場合に時の分国主の寄与にあずかっていたとみられる点である。
 かくして全体を通観すると、若狭国にあっては特に十二世紀それも後半の後白河院政期に、一方では別名制確立の過程が進行するとともに、他方で荘園の急激な増大があったといえる。そしてこの荘園の拡大には、在地領主の私領確保の動きとともに、下級貴族・官人・僧侶・神官らの在地への積極的な働きかけがあったことがわかる。諸権門の所領確保の動きは、こうした動向と結びついて活発に行なわれた。そのなかで特に注目されることは天皇家領と山門領の飛躍的な増大があったことであるが、やがてこの動きは承久の乱を経て嘉禎国検の時期にいたりほぼ終わりをつげ、荘園公領制はここに最終的な確立をみることになったといえる。



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