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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    二 越前国一宮
      気比社の人的構成
 中世の気比社大宮司大中臣氏が在京していたことはすでに述べた。したがって日常的に気比社を運営していたのは気比社政所であり、執当以下の神官たちであった。執当とは一般に庶務を担当する神官の称であるが、延暦寺では諸職の補任を司る寺官をいい、寺務を担当する三綱とよばれる僧侶が輪番で務めた。気比社の場合、刀職補任の気比社政所下文に執当が単独で署名しているところをみると、気比社執当も延暦寺の執当と同義の職分であったようである。
 「建暦社領注文」にみえる気比社政所の構成員は、検校兼正宜散位角鹿・行事兼権宜散位角鹿・行事兼副宜散位角鹿・別当兼常宮宜散位角鹿・別当兼常宮祝散位角鹿・勾当兼金宮祝散位角鹿で、すべて角鹿氏で占められている。執当には角鹿氏のほかに大中臣氏もいたが、気比社神官の人事構成における角鹿氏の優位は動かない。角鹿氏は旧国造系の敦賀郡司であって(通1 二章四節二参照)、古代以来気比社にその一族が神官として入っていたのであろう。そして、気比社が荘園化し本家・領家が設定され、さらに在京する大宮司のもとで恒例・臨時の神事祭礼が営まれるようになったとはいえ、実質的な運営の中核としての角鹿氏の地位は失われることはなかったものと思われる。
 さて次に、神事祭礼に芸能をもって参加する人びとがいた。「建暦社領注文」には、乗尻(競馬の騎手)や舞師・物節(ともに神楽に関係するか)などがみえるが、彼らが気比社専属の芸能民であったかどうかは未詳である。ただ舞師・歌師・物節については給免田が与えられているので、その可能性はあるかもしれない。ところで表3のうち除田の内容は注記を省略したが、その除田には神事祭礼などに充てられる田地のほか、下司給・公文給などの荘官給に混じって、比物(桧物)給や土器作給、あるいは道々工等例給など手工業者への給免田と考えられるものがある。比物は「建暦社領注文」に本家以下に貢進する公事としてみえる「歳末節器比物具」と関連するものと思われ、社領に給免田を得てそれぞれの生業によって気比社に所属する手工業者がいたことも確認される。
 このように、気比社の日常的運営は角鹿氏を中核とする神官集団によって担われたが、神官組織の末端にいた芸能民・手工業者を含む広範な社領の住人たちや、あるいは先にふれた多くの神人たちによってその運営は支えられていたのであり、この側面を無視して中世の気比社を語ることはできないのである。



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