目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    二 越前国一宮
      浦刀と気比神人
 「建暦社領注文」に載せられる公事の大半は海の生産物である。これらの公事は、浦刀とよばれる海村(浦)の指導者や北陸各地に散在した気比神人によって負担されていた。
 一般に浦刀は、浦の生産活動の中心にあって、同時に年貢・公事の徴収請負人としての性格をもつ浦の政治・経済的指導者である。多くの場合その地位は世襲され、刀職に付随した諸特権が認められていた。気比社領となっている浦々の刀もまたそのような存在であったが、彼らは気比社から刀職の補任状を受け、社領のなかに給免田を与えられていた。

表5 敦賀郡の浦刀祢職等補任状一覧

表5 敦賀郡の浦刀祢職等補任状一覧
 表5は現在に残る浦刀職補任状の編年譜である。「建暦社領注文」に社領としては記載されない江良浦刀の補任状も存在することから、気比社の浦支配が「建暦社領注文」の範囲を越えていたことは明らかである。ただ、沓・江良・手など敦賀郡内の浦に下文が残されていることや、南条郡大谷浦と丹生郡干飯・玉河浦の公事は内容も異なり神人による貢進であると推定されることなどから、気比社による浦刀職補任は敦賀郡内の浦に限られていたと思われる。また表5に示された下文の年代範囲に注目すると、鎌倉後期から戦国期に及んでいることがわかる。戦国大名朝倉氏の敦賀進出とともに気比社の政治的・経済的支配力も後退を余儀なくされていったに違いないが、基本的には気比社執当が署名する気比社政所下文の形式で浦刀補任状が発給され続けたことは、気比社と敦賀郡内の浦々との密接な関係が維持されていたことを示している。
 また、戦国期には気比社執当の「御私領」となっていた江良浦には、領主である執当に浦刀以下の住人が負担する年貢・公事を記した指出が残されている(資8 刀根春次郎家文書四・五号)。注目されるのは、ここには浦刀以下が負担する内容ばかりでなく、領主である執当が刀以下に対して下行すべき内容までもが記されていることで、気比社の浦支配が互酬互礼の関係によって成立していたことが示されている。
 さて一方、気比神人には越前・能登・越中などに在国して気比社に公事を貢進する在国神人と、気比社の周辺にあって所課米や公事を負担する本社神人とがあった。それぞれの神人が負担していた年貢・公事の内容は表3・4に示したとおりである。しかし、すでに「建暦社領注文」が指摘するように、鎌倉前期に在国神人の逃亡によって気比社への公事貢進が停止している社領もあった。また、広範な延暦寺領荘園の展開とともに北陸道諸国には多くの日吉神人が散在したが、その日吉神人のなかには気比神人を兼ねる者もあった。建保二年に御家人に准じて内裏大番役を賦課されそうになった中原政康は、自分は日吉神人であるとともに「気比大菩薩神奴」であって祖父以来その器量ではないことを主張して御家人役を忌避しているが(資2 醍醐寺文書一〇号)、この政康などはその典型である。



目次へ  前ページへ  次ページへ