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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    二 越前国一宮
      都市領主と気比社
 応徳三年(一〇八六)、京都では白河上皇による院政が開始された。越前は院の知行国となり、越前守には院の近臣が選任されて院による国衙支配が進展するが、気比社もまた院の影響化に組み込まれていく。安元二年(一一七六)の八条院領目録に気比社が載せられているのがその徴証である(資1 山科家古文書)八条院は白河院政を継承した鳥羽院の娘で、鳥羽院から莫大な院領荘園を譲られたのであった。気比社が院領荘園化した経緯は未詳であるが、美福門院(鳥羽院の后、八条院の母)が越前国主であった十二世紀なかごろ、美福門院の縁故で越前守となった藤原惟方が敦賀郡気比荘を興善院領(事実上の院領)としていることと関連があるとされている(本章一節二参照)。
 八条院領はそののち後鳥羽院を経て室町院に継承され、さらに大覚寺統へと相伝されていくが、建久七年(一一九六)八条院が病重くその所領処分が行なわれたさいに、八条院領の一部が九条良輔に「分賜」された(『玉葉』同年正月十四日条)。良輔は八条院に仕える女房三位局と九条兼実の間に生まれた子で、三位局の前夫は八条院の猶子となった以仁王である。八条院領のすべてはすでに以仁王の遺児三条姫宮に譲与されてあったので、良輔がこのとき得たのは「分賜」された八条院領荘園の領家職であったと考えられる。気比社もその「分賜」された荘園に含まれていたから、ここに気比社は本家―天皇家、領家―九条家という荘園制的秩序のなかに置かれることになったのである。
 それでは、気比社は本家・領家に対してどのような義務を負ったのであろうか。建暦二年(一二一二)九月日付の「御神領作田所当米以下所出物等惣目録事」(以下「建暦社領注文」と略)からその実態をみてみよう。
 「建暦社領注文」に示される気比社領とその年貢・公事の配分を一覧にしたのが表3(表3 敦賀郡気比社領の構造)と表4である。年貢を負担する社領はほとんど現在の敦賀市内に所在しており、公事を負担する海村が北陸の日本海沿岸に点在しているのが気比社領の地理的分布の特徴である。そして、在京する本家・領家・大宮司に配布される年貢・公事の総計に注目すると、年貢のほぼ六割が本家分とされ残りを領家と大宮司が分け合うこと、公事では領家の得分が多いことなどが看て取れる。年貢のなかには、気比社の神事祭礼費などの形で控除されて事実上気比社に還流する分や、山越えで琵琶湖にいたり大津で荷揚げして京都へ輸送する経費が含まれているので、そのままの数値で判断するわけにはいかないが(本家分は特に還流分が多く、実際に本家が手にする年貢量は表4に示される数値の約四割に過ぎない)、大まかな傾向は把握できると思う。

表4 敦賀郡気比社の公事

表4 敦賀郡気比社の公事
 「建暦社領注文」は、治承・寿永の内乱や本家・領家の別相伝地の出現によって、気比社政所が管轄する社領に変動が生じていることを前提として、政所の沙汰として本家・領家などに負うべき年貢・公事の員数を社領の現状に即して書き上げたものである。したがって、そこに気比社そのものの経常収支は示されてはいないし、江良浦のように気比社領であることが他の史料から確かめられるところも、この「建暦社領注文」には載せられていない。しかし在京する大宮司を含め、本家・領家という都市領主と荘園化した一宮との経済的関係を極めて明瞭に知ることのできる史料といえる。
 ただ、都市領主と気比社との間に取り結ばれた関係は、右にみたような経済的関係ばかりではなかった。九条良輔が得た領家職は、建保六年(一二一八)の良輔の死後その妻八条禅尼の手から青蓮院慈源に譲られ、その後は気比社社務職とともに青蓮院が管領することになった(資2 宮内庁書陵部 九条家文書一号、『華頂要略』門主伝)。したがって、鎌倉後期には本家―大覚寺統、領家―青蓮院という関係が設定されることになった。南北朝内乱期、気比社が金ケ崎城に篭もる新田義貞を支援する伏線はすでに形成されていたのである(二章一節四参照)。



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