目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    二 越前国一宮
      越前国衙と気比社
 越前国一宮は気比社(敦賀市)である。諸国一宮は一般に国衙に隣近し、国衙の権力組織を構成する在庁官人の共同の守護神として、国衙支配をイデオロギー的側面から支える重要な政治的役割を果たしていたとされる。若狭国一・二宮はその典型的な事例である。しかし気比社は国衙の所在した府中(武生市)とも地理的に隔たり、在庁官人との関係も希薄であった。しかもすでに九世紀の寛平五年(八九三)には、越前国から「移」という対等ないしは直接の統属関係にない官衙間に用いられる文書が発給されるなど(資1 「類聚三代格」一)、国衙から相対的に独立した地位を得ていた。諸国一宮が成立するのは十一世紀であるとされているが、少なくともこの段階で気比社が一般的な意味でいう諸国一宮の機能を果たしていたとは考えにくい。
写真34 気比宮古図

写真34 気比宮古図

 それでは、越前において国衙在庁官人の共同の守護神としての機能を果たしていたのはどこであったか。それは他ならぬ府中惣社(武生市)であったろう。諸国惣社は一宮以下の国内神社の祭神を合祀することによって、それぞれの神社を拠りどころとして結集している在地勢力を国衙のもとに再編成する機能を果たすべく創設された国衙の神社である。諸国惣社もまた十一世紀に成立したとされ、一宮の上位に位置づけられたともいうが、越前における惣社の成立を史料的に確かめることはできず、また惣社と気比社との関係も明瞭ではない。ただ気比社が惣社の下に編成されたとは考えにくいから、国衙と気比社は政治的にも宗教的にもそれぞれ自立した形で越前にその勢力を保持していたと推定するのが妥当である。
 長治元年(一一〇四)六月、気比神人が内裏陽明門に群参して国司高階為家の非法を訴えるという事件がおこった(資1 「中右記」同年六月十九日条)。国司非法の内容は未詳であるが、国務が国司の請負となり在庁官人による国衙領の「別名」化が進行するなかで、国司の苛政を糾弾する人びとの内裏直訴は十一世紀以来さかんとなっていた。この事件もそれらの一事例として理解できよう。しかしこの気比神人の行動から、国衙と気比社がむしろ対立を深めていたらしいことが想像できる。



目次へ  前ページへ  次ページへ