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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    三 若狭の荘園・国衙領と地頭・御家人
      浦と荘園
 大田文では、別名型の所領などとは区別された形で最末尾に一括して一〇か所の浦が書き上げられている。これらを含めて、若狭湾岸には古くから数多くの浦の発展がみられた。大飯郡では恒貞・友次・鞍道浦、遠敷郡では今富名の中心である小浜をはじめ賀尾・阿納・犬熊野・志積・矢代・多烏の諸浦、三方郡では古く発達した気山津のほか、丹生・馬背竹波・菅浜・早瀬・日向・三方・常神・御賀尾・小川・能登などの各浦である。
写真35 三方郡丹生浦

写真35 三方郡丹生浦

 これらの浦が、塩や魚類の生産・貢納に従い、また廻船業の拠点としてそれ自体独自の単位をなすものであったことは、大田文の浦の扱いそのものにも暗黙のうちに示されている。しかし、例えば犬熊野浦が国富保に属し、多烏浦が西津荘の「片荘」とされ、矢代浦が宮河荘の内であると主張され、同様に御賀尾浦が倉見荘に属していたように、特定の荘園と浦との関係が両者の距離的隔たりにもかかわらず終始維持されており、荘園領主にとって浦のもつ機能の掌握が極めて重要な意味をもっていたことがうかがわれる。
 さらにまた、鎌倉初期に当国最大の御家人稲庭権守時定の有した少なくとも二五か所に及ぶ国衙領・荘園の下司職が地頭職となって若狭氏に受け継がれ、十四世紀初頭までには守護職・国衙税所職ともどもそのほとんどが北条氏得宗の手に掌握されていたことも注目され、当時得宗が地頭職を有した若狭国内の所領は二〇か所を下らず、税所今富名などをも加えた田数は国全体の三分の一にも達する状態にあった(本章五節三参照)。



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