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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    三 若狭の荘園・国衙領と地頭・御家人
      若狭の地頭と御家人
 まず若狭の地頭については越前と同じく、平安期以来この国に土着し鎌倉殿の御家人となった国御家人は地頭に補任されていないことが確認される必要がある。遠敷郡国富荘で稲庭時定が有した権限は「地頭職」と称されているが、これはのちの地頭若狭忠季の権限になぞらえた言い方で、時定が地頭に任じられていたわけではない(「続左丞抄」)。したがって若狭において地頭に補任されたのは国御家人以外の、多くは東国の御家人であり、ここに若狭の国の人びとにとっては鎌倉幕府が東国政権としての性格を帯びていると感じられた根拠がある。すでに述べられているように、科人を百姓に預け、犯罪人に宿を貸したとして宿主から「引文」を責め取ってその身を売却するなど、遠敷郡太良荘地頭若狭忠清が荘民に対して行なった非法は(ほ函八)、地頭にとってみれば東国の「常習」であったのである(本章三節二参照)。西国に属する若狭に、強い隷属性を特質とする東国の荒々しい主従制の論理を持ち込み、支配にあたったのはこれら地頭であった。
 稲庭時定が建久七年(一一九六)に突然没落させられた跡を継いだのが、若狭守護で同時に遠敷・三方両郡惣地頭として国内二五か所の荘園・公領の地頭職をもつ若狭忠季であった。忠季が地頭職をもっていたのは国衙税所領今富名、遠敷郡西津荘・国富荘・富田郷・栗田保・恒枝保・西郷・太良荘・武成名・瓜生荘・津々見保、三方郡三方郷・前河荘・太興寺などであり、遠敷郡に関しては近江に通じる街道に沿って分布していることが注目されている。忠季の所領が安定的に維持されたものでなかったことはすでに述べられているところであるが(本章二節参照)、若狭の地頭配置に変化が生じたのは、守護であるとともに遠敷・三方両郡一六か所の地頭であった若狭忠時が寛喜元年(一二二九)の「政変」によって失脚してからであった。忠時の弟の忠清は依然として遠敷郡瓜生荘・太良荘など九か所を保持していたが、忠時跡の地頭職はのちに判明するところでは伊賀氏・二階堂氏・殖野(上野)氏などがもつようになっている(本章三節二参照)。少し具体的にみておくと、伊賀氏に関しては、大田文の津々見保に付せられた元亨年間ごろの朱注に「地頭伊賀式部二郎さ衛門尉跡」とあり、また三方郡日向浦の同朱注も「地頭伊賀式部大夫跡」と記しているが(ユ函一二)、これらは執権義時の死後に執権と将軍の跡目をめぐる事件によって配流されたこともある伊賀光宗が忠時跡を支配していたことを示す。さらに建治四年(一二七八)に国富荘において預所と地頭との間で所務中分が行なわれたが、そのときの地頭方の請文を提出しているのは幕府評定衆で、弘長三年(一二六三)より若狭国衙税所代をも務めている光宗の孫伊賀光政であったことから、伊賀氏の国富荘支配を知ることができる(『壬生家文書』三一九号)。また建長元年(一二四九)に遠敷郡神宮寺の四至を寄進している光宗の甥の伊賀光範がみえるが、正中三年(一三二六)に神宮寺に武成名内一町を寄進し、正慶二年(一三三三)同じく西郷内一段を寄進している藤原光定も伊賀氏である(資9 神宮寺文書一・五・六号)。この光範は大田文朱注に忠季跡武成名を支配したと記されている。このように伊賀氏は、津々見保・国富荘・日向浦(この浦を含む耳西郷全体か)・西郷・武成名に所領を拡大した(図18)。ただしのち得宗の支配権拡大のなかで、光宗・光政の津々見保と国富荘の地頭職は得宗支配とされた。しかし光範の子孫は南北朝期末に一色氏被官として若狭を離れるまで所領を維持したものとみられる。そのほか三方郡倉見荘において建治三年より知られる地頭藤原氏とは、のちに隠岐三郎左衛門とよばれていることから幕府の吏僚二階堂氏の一族と推定されている(資8 大音正和家文書一三・七六号)。前河荘の殖野氏については、忠時の跡を殖野為時・胤時親子が建長年間(一二四九〜五六)まで支配したことを示す史料がある(資2 斉民要術紙背文書二号)。
写真36 遠敷郡津々見

写真36 遠敷郡津々見

 鎌倉期末になると新しい型の御家人が現われる。嘉元二年(一三〇四)に松田十郎頼成は、所従である遠敷郡志積浦刀の安倍景延らが志積浦地頭の権威を背景に命令に従わないことを六波羅探題に訴えている。この訴えに対して景延が自分は頼成の所従ではないと反論して相論となったため、六波羅より出浦重親と田河孫五郎が使者として派遣されたが、出浦重親と松田頼成の父光阿は従兄弟どうしであり、田河孫五郎も重親と「一体」の人物であるとされている(資9 安倍伊右衛門家文書一〇〜一二号)。重親は所領の遠敷郡安賀荘万代名内の地を光阿に譲ったというから、松田・出浦ともに若狭に所領をもつ御家人であった。文永年間(一二六四〜七五)ごろ三方郡前河荘に関する「六波羅殿御使」の一人に出浦蔵人入道行念がみえているから(資2 斉民要術紙背文書一号)、出浦氏は六波羅の使者を務める在京御家人であったと考えられる。少しのちに在京御家人として松田十郎左衛門の活動が知られ、頼成の祖父の掃部と同じ官途を称する六波羅奉行人松田頼済が別に知られるので、頼成も六波羅と関係深い人物であったと推定しうる。
 また大田文朱注によれば、遠敷郡鳥羽上保の下司、同保内多烏田の領主として松田九郎左衛門大夫がいたことが知られるが、彼は嘉元三年まで六波羅の四番奉行人であった松田九郎左衛門尉頼行と同一人と判断される。このように、鎌倉期末になると六波羅に在京御家人・奉行人として奉公する御家人たちの所領がみえ始め、彼らの間では同族関係だけでなく、婚姻を通じても結びつきが保たれていた。彼らの活動舞台は京都にあったが、若狭においても志積浦刀を所従と称して支配下に置こうとするような動きをみせていたのである。なお、これら在京御家人や奉行人は鎌倉幕府滅亡後も存続する者が多いが、鳥羽保松田氏は室町幕府奉行人として、頼成の子孫は遠敷郡宮川保松田氏として存続しており、出浦氏も南北朝期に遠敷郡名田荘の幕府両使の一人としてみえている(資2 真珠庵文書二一号)。



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