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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    三 若狭の荘園・国衙領と地頭・御家人
      国御家人の動向
 建久七年六月の時点における国御家人三三人のそれぞれの本貫の地についてみると、その内訳は大飯郡七人・遠敷郡一九人・三方郡七人であったと判断される(ホ函四)。彼らのうちに地頭職に任じられた者は見当たらず、大田文朱注にみえるように下司・公文・名主・地主・領主という国衙・荘園領主支配下の職を保持していた。それゆえ、とりわけ承久の乱ののちは地頭や領家の圧力を受け、一三人の国御家人が御家人役を負担することができない状態になっていた(ノ函一)。国御家人たちは寛元元年(一二四三)の幕府の御家人領保護令を根拠に所領回復運動をおこす(本章三節三参照)。御家人出羽房雲厳の名であった遠敷郡太良荘末武名が長い相論のすえ中原氏女に与えられたのはその成果であるが(本章六節一参照)、鎌倉後期の得宗専制支配のもとでは国御家人の所領への圧迫が加えられ、いたるところで得宗地頭代官や給主を相手とする相論がおこっていた。ここでは、鎌倉期の困難な状況のなかで国御家人たちがどのような動きをみせていたのかについて、簡単に述べておきたい。
 国御家人たちには、新しい守護・地頭に対応してそのもとで所職を維持あるいは獲得して生き延びていく道があった。建久七年に稲庭時定の同類とされて国衙在庁官人としての給田三町を奪われた時通は、守護若狭忠季が支配した税所領今富名の代官古津三郎時通として現われ、子と考えられる時経も大飯郡岡安名主であった国御家人岡安右馬大夫時文とともに忠季の子忠時が失脚する寛喜二年まで税所代官を勤めている(「税所次第」)。そののち税所代に忠季後家の若狭尼や前述の伊賀光政が任じられたときには、在庁官人の池田尚頼やその子でのちに倉見氏を称する忠氏が代官となっている(同前)。前述のように雲厳の所職を譲り受けた稲庭時定の子の時国は太良荘領家源家兼の「家人」で、同時に地頭中条家長の「縁者」であり、また大飯郡青郷地頭(氏名未詳)に「祗候」して青郷代官にもなっていた(本章二節三参照)。嘉禎三年の国検に関して証言した有田三郎は若狭忠季の子忠清の「家人」であるといわれており(エ函二)、末武名を争った宮河乗蓮の娘婿の二郎入道師総は、もと国御家人小崎太郎の「郎等」で今は遠敷郡松永保地頭の多伊良能綱の「郎等」であるとされている(京函一二)。この有田や師総は、国内武士が地頭の従者化していた例として注目される。
 次には国御家人たちが横のつながりを強めて勢力を維持していった場合が考えられる。鎌倉期前半に国御家人和久里氏の有する国衙別名是光名内一町四段余、木崎七郎大夫基定のもつ国衙別名の細工保内一町八段余と利枝名内三段余の田地が抜き出され、寄せ集められて新たに正行名が構成されている。和久里氏は稲庭時定とともに在庁給三町を没収された和久里時継の一族の国御家人であり、木崎基定は建久七年にその名が知られる国御家人の一人で、ともに国衙在庁官人であった。正行名はのちに比叡山横川霊仙院領となるが、この名が作られた事情も荘園となった背景も明らかでない。しかし、和久里政氏(法名政阿)がこの名を養子の多田太郎兵衛尉資政に譲ったことが知られ、この多田資政はまた大田文朱注では「木崎兵衛太郎」とよばれ、その孫の政重は「木崎正行五郎政重」とも称されており、和久里・多田・木崎(木崎正行)の三氏の結びつきが示されている(資9 若狭彦神社文書二号)。さらに大田文朱注によれば、この正行名の田地の一部が富田郷内にあったことから、富田郷の得宗給主塩飽修理進との間で相論となっていることが知られるが、そのとき塩飽氏と対決しているのはもとの田地である是光名惣領の和久里又太郎と利枝名惣領和久里又六であった。国御家人の和久里・多田・木崎(木崎正行)氏が結びつきを強め、得宗給主と対抗している様子をうかがうことができると思う。後述するように、この多田氏の背後には若狭一・二宮宜家との結びつきもあったのである(本章六節三参照)。なお若狭の国衙機構や在庁官人については、守護の支配した税所のほかはほとんど不明であるが、弘安十一年(一二七四)に税所領遠敷郡谷田寺の寺敷地内での狩猟や狼藉は国衙惣大判官代安倍氏が禁止しており、守護より自立した国衙機構の存続を確認することができよう(資9 谷田寺文書二号)。和久里・木崎氏などの在庁官人が勢力を維持しえたのも、国衙機構が存続していたからであった。
 国御家人の動向の具体的な例として、国御家人の伝統的な勢力を継承しながら、在地における支配権拡大をめざしていた鳥羽氏の動きが挙げられる。建久七年に国御家人として現われる鳥羽源内定範の子の国範は稲庭時定の子時国の養子となって勢力を拡大し(図10)、その子の鳥羽国茂のときには本拠地の遠敷郡鳥羽荘のほか、同郡内の安賀荘・瓜生荘・吉田荘のそれぞれ公文職を有していた(ラ函三七、京函一四、み函九五)。国茂は建治三年に一族の中原氏女のもつ太良荘末武名を奪おうとして相論をおこすが、中原氏女からは鳥羽荘以下の所領において年貢を未進し、安賀荘公文職を獲得するために母と合戦に及んだ「悪事の仁」であると非難されている。この相論は惣領が一族に対して支配権を確立しようとする過程で生じる一族内部の紛争であるが、国茂の行動が悪党的様相を帯びていることも注目される。さらに国範・国茂の親子は遠敷郡須那浦で網を引いたとされ、国茂の子の国親は乾元元年(一三〇二)に須那浦網場の独占利用をめざす遠敷郡汲部浦と結んで多烏浦の網を切り上げ、事情を尋ねた得宗代官に対し、この浦を支配しているのであるからこの海の網場を支配するのは当然と主張している(秦文書四三〜四五号)。国親の主張は認められなかったと思われるが、国御家人が百姓と結んで得宗代官に抵抗した例として注目される。
写真37 遠敷郡鳥羽荘

写真37 遠敷郡鳥羽荘

 最後に国御家人全体の動きの一つの特徴について述べておく。寛元元年の幕府の御家人領保護令を根拠に展開された国御家人の所領回復運動は、関東御家人である地頭や若狭氏の横暴を糾弾する現地の抵抗運動という性格を帯びていた。しかし弘長元年ころ恒枝公文職相論に関して、国御家人たちは公文職を主張する宮河乗蓮は御家人ではない旨の連署状を提出しており(京函一二)、さらに文永十一年五月になって建久七年の国御家人交名(名簿)が提出されており(ト函一三)、御家人を建久七年段階の家筋に限ろうとする意図と理解しうる。こうして国御家人集団は次第に排他的・特権的性格を強めつつあった。得宗支配下では次のような例がある。恒枝保公文の清水五郎信泰はもとは御家人であったが、その由緒の最初を明らかにすることができなかったため、御家人名などを没収されて得宗給主の塩飽氏のものとされてしまったという(ゑ函二七)。ここには御家人でありながら国御家人仲間の証言や援助を得られず、泣き寝入りしなければならなかった例が示されている。



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