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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
     四 若狭一・二宮の動向
      一・二宮の性格
 十一世紀末から十二世紀に、諸国では一宮・惣社が成立した。国内の神社のうち有力なものが選ばれて国衙によって一宮・二宮・三宮の順位づけがなされ、一宮の神事や造営は一国規模で人や財を動員して行なわれるようになる。諸国一宮のなかには越前気比社や加賀白山社のように、国衙から離れたところに鎮座しながらも古くからの豪族的な地位を保持し、国衙から相対的に自立的な性格をもつ神社と、国衙に近く国衙との密接な関係によって一宮に転化した神社とがあるとされているが、若狭の一宮である若狭彦社と二宮である若狭姫社は後者の神社に属すると考えられる。惣社が「府中鎮守」とも称される場合があるように国衙の行政のための神社であったのに対し、一宮は国を代表する神社であり(二宮は准一宮と位置づけられた)、その祭祀は在庁官人を中心とする国内領主たちの結合を強める役割を果たすとともに、中央国家の安泰を祈念する性格をもっていたとされている。古くは遠敷川上流の農業神(水源の神)であり、のちに海神としての性格を合わせもつようになり、さらに「唐人」の姿で垂迹したとあるように「漢神」(祟り神)としても人びとに信じられたこの両神は、中世においては若狭国の一・二宮としての位置づけを与えられたのである。中世においても一・二宮宜職は垂迹した彦姫両神の眷族の節文の子孫である笠氏がもち伝え、その庶子は牟久氏を称して神官の役を果たしている。宜・神官の系図として鎌倉期が特に詳細な「若狭国鎮守一二宮社務代々系図」(資9 若狭彦神社文書二号)と、初代節文から代々の宜について奇数代は神、偶数代は俗人とする伝承にもとづいて描かれた「若狭国鎮守神人絵系図」(京都国立博物館所蔵)が伝えられており、いずれも最初の部分は鎌倉後期に書かれたものとされている。なお中世では両社は「一二宮」あるいは「上下宮」と称されることが多い。上宮とは若狭彦社、下宮とは若狭姫社をさす。
写真38 若狭国鎮守一二宮社務代々系図(部分)

写真38 若狭国鎮守一二宮社務代々系図(部分)



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