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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
     四 若狭一・二宮の動向
      国司の祭祀
 若狭には戦国期の享禄五年(一五三二)に書写された若狭国内神名帳が伝わっており(資9 小野寺文書二号)、それには国内の神社一四五社が記されているが、とりわけ鎮守大明神一二社として遠敷郡若狭彦・若狭姫・八幡三所(小浜八幡)・賀茂・比叡(日吉)・気比・気多・天満(竹原天満)・多太・久須夜、三方郡於瀬(宇波西)・常神の神社が挙げられている。古代若狭の神名帳を載せる「延喜式」には八幡・賀茂・比叡・気比・気多・天満はみえないが、これらは平安期以降に中央での勢威や若狭での荘園の拡大にともなって若狭の有力神社となったものである(ただし気比・気多は少し性格が異なり、中世においてその存在を確かめることができない)。これら大明神一二社のうち、気比・気多を除く一〇社は国司初任のときの神拝や、毎月一日に行なわれる国衙祭祀である朔幣を受けていた(資9 若狭彦神社文書一号)。
写真39 若狭彦社(小浜市竜前)

写真39 若狭彦社(小浜市竜前)

 若狭一宮の祭礼のうち国衙が行なった祭祀の様子は、乾元二年(一三〇三)に書写された「詔戸次第」に収められた建暦二年(一二一二)正月の国司神拝のときの詔戸(祝詞)と、建長七年(一二五五)二月十日の恒例祭のときの国衙留守所目代の詔戸の考察によってすでに明らかにされている(同前)。それによると、建暦二年の神拝は新任国司が任国に下向して行なわれる初めての国衙祭祀であり、吉日を選んでまず国庁の祓殿屋で神名帳に載る一四〇余社の祓いを行ない、ついで惣社における神事を終え、前述の国内大明神一〇社に幣帛を捧げる使者が派遣される。それが済むと神拝御財物(弓・箭・太刀・鉾・鈴・鏡・衣蓋・金銀并白妙色紙等御幣・神馬)や美物一重を先頭に行列を組んで一宮に向かい、一宮において国司赴任を報告し、神が日夜守り給うことや所望の任官が叶うことを祈願する詔戸を奏し、持参の財物を捧げるとともに、献上の神馬を検分する儀礼である十列と舞人による東遊(東国でおこった神事歌舞)が行なわれる。それに対して一宮神の返事を神官が取り次ぐのが「返申次第」であり、そこでは御幣・財物などを神が納受したことに続いて、国司を日夜守るとともに望みの任官が叶うことなどが述べられ、最後に「当国三郡、諸国ヨリモ富勝テ興福ノ国ト守厳ミ給」うことが約束される。
 建長七年の恒例祭では、白妙御幣・御供・御酒・十列・東遊を捧げて、天皇・上皇をはじめ中央の文武百官の御願成就と「当国ニハ大介(国守)・目・在庁官人・郡郷官々・万民百姓等」の所願成就、ならびに「天下泰平・国土豊饒」などが祈念される。これに対して一宮神より、国衙留守所目代をはじめとする官人・舞人・幣衆と当国三郡を守るという返事がなされる。恒例祭が天皇以下の中央国家を祈念するものであること、および在庁官人を中心とした国の人びとの所願成就をも祈念する国衙祭祀であったことがよく示されている。



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