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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
     四 若狭一・二宮の動向
      社領とその支配
 大田文に記された社領についてみると、一・二宮は不検注の四六町一段余、八講田・掃除田など三町四段余、国祈所常満保内祈供料一九町余の合わせて六八町七段余の不輸田を遠敷郡内で認められており、日吉社四町八段余・於瀬宮四町余・小浜八幡宮二町七段余の神田と比してみると一・二宮の隔絶した地位をうかがうことができる。この社領は嘉元四年(一三〇六)には室町院(後堀河天皇皇女暉子)の荘園であったことが知られる(資2 竹内文平氏所蔵文書一号)。この室町院領は式乾門院(後高倉天皇皇女利子)より室町院に譲られたものであるが、仁治元年(一二四〇)に若狭は「式乾門院の御分」とされているから(「東寺文書」)、一・二宮社領は式乾門院が分国主のときに荘園化したものと思われる。なお大田文朱注では社領の本所は山門門跡寺院の安居宮であるとされ、一・二宮宜職は本所の進退するところであったとしている。
写真40 若狭姫社(小浜市遠敷)

写真40 若狭姫社(小浜市遠敷)

 一・二宮の社領は国衙領の遠敷郡志万郷(領主国御家人和久里兵衛大夫・同又三郎)・西郷(地頭得宗、公文和久里兵衛大夫)・安賀郷(地頭小林二郎)・富田郷(地頭得宗)・東郷(地頭得宗)にあった(括弧内は大田文朱注などによって推定される鎌倉期末の郷の支配者)。したがって社領支配のためには郷の地頭・領主・公文に依存することが多かったと考えられるが、とりわけ社領の大きな部分を占める志万郷・西郷については、国御家人であり国衙在庁でもあった和久里氏との結びつきが重要であったろう。西郷内の彼岸田など二町二〇〇歩が地頭若狭氏の支配する栗田保に繰り込まれたときにも、そのうち五段二四〇歩は一・二宮の本所が、一町一段三二〇歩は和久里又太郎が地主職をもつとされていることが大田文朱注から知られるが、このことも社領と和久里氏の結びつきの強さを示すものであろう。これらの社領は「西郷方太郎丸名」「西郷方伊王丸名」のように名を単位とする場合があり、一・二宮神官の牟久氏が分割知行しているから(資9 若狭彦神社文書二号)、地頭や和久里氏に全面的に依存して社領支配が行なわれていたのではなく、神官による土地と農民の直接的支配が意図されていたと考えなければならない。しかし、宜や神官たちが社領に強い支配権を打ち立てて在地の有力武士団として成長するまでにはいたらなかったものと思われる。



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