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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
     四 若狭一・二宮の動向
      宜家の新しい動き
 鎌倉期の一・二宮の動向は、前述の社務系図の記述のほかは史料を欠いている。系図は九代の景安(一二一七年没、八〇歳)までは簡単な記事しかないが、十代の利景(一二二七年没、六六歳)からは宜についてのみならず、庶子・女子および彼らの子孫について俄然記事が豊富になる。利景の代には弟の景基が初めて「上下宮御供備進役神官職」を譲り得たことが注目され、一族神官による祭祀維持の体制が整えられていったことを示している。またその他の弟が山僧・山徒になっていること、山徒となった末弟の子孫が国衙祈所常満保供僧あるいはその妻になっていることが目立つ。十一代の景尚(一二五二年没、七〇歳)の代には山僧になる者の数が減るが、末妹が常満保供僧多田慈心房を夫としたことから、宜家・牟久家・多田氏との密接な関係が生まれ、その子孫に神田を相続知行するものが少なくない(本章六節三参照)。またこの多田慈心房妻の子息の資政が和久里政氏の養子となって正行名を譲られたことから、和久里氏や木崎氏とのつながりも強められた(本節三参照)。
 次の十二代景継(一二九九年没、九五歳)の代には弟の僧実尚から常満保供僧・国分寺別当家ともいうべき家筋が生まれ、在庁官人池田恒頼を夫とした末妹が池田氏・多田氏との縁を強めている。それにもまして注目されるのが、景継の妻を通じての新しいつながりである。図9にみられるように、景継の妻はのちの太良荘につながる私領を若狭にもった国の名門平師季の系譜をひく本郷進士頼忠の娘であり、その姉妹は幕府の重臣三浦泰村の子に嫁いでいた。景継はこうして国内外の名門武士と婚族となったのであり、三浦氏と妻の姉妹との間にできた娘を一族の願生房の養女とし、さらに子の朝景の妻に迎えている。本郷進士頼忠の娘と景継の婚姻はこのような意味で宜家にとって一つの画期であった。前述の絵系図が二五歳の景継の姿を描いていることから、その婚姻は景継二五歳の寛喜元年(一二二九)のことであったと推測する説がある。景継にとって、こののち三浦泰村が執権時頼との対立を深め、ついに宝治元年(一二四七)の宝治合戦で滅ぼされてしまったのは、誤算であったといえよう。こののち自重していたであろう景継に状況の変化が生じたのは安達泰盛の主導する幕府による弘安七年(一二八四)の改革であり、五月に幕府は諸国の一宮・国分寺の興行を図るため「往古の次第」(由緒や歴史)・「当時次第」(現状)・「管領仁」(管理者)・「免田」(所領)について守護に注進させている。これに応じて一・二宮復興を意図した八〇歳の景継は、この年の九月十七日に一・二宮に参詣して御供を備進し詔戸を読み上げ、供僧三〇人・御子(巫女)・祝・海人たちに饗膳・酒肴を勧めたのち、二宮の南廻廊で神殿を三拝して暇を請い、多田妙観阿闍梨を導師として出家し善真と称した。六六歳の妻も同所で出家して真阿と名乗った。これは宜景継の引退、十三代宜の光景の就任という代替りの儀礼であり、一宮造営は新しい宜光景のもとで、守護得宗やその御内人が代官となっている国衙税所の支援を受けて弘安九年より始まるのである(本章五節二参照)。
図9 祢宜景継・妻真阿関係系図

図9 祢宜景継・妻真阿関係系図
             注1 作図の便宜上、兄弟姉妹の順を入れ替えている場合がある。
             注2 四郎式部丞道阿は、四郎式部丞と子の道阿であるとも記されている。
             注3 若狭彦神社文書2号(資9)により作成した。



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