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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
    一 モンゴル襲来と社会の変動
      十三世紀後半の社会の変動
 十三世紀も後半に入るころなると、社会の全体に大きな変化が現われ、政治の動向もまたそれにともなって否応なしに変わってくる。
 特に中国大陸―宋から大量に流入した銭貨が社会の深部まで浸透・流通し、「替銭」「割符」といわれ「切銭」とよばれたともいう為替・手形が広く用いられるようになってきた。それまで絹・布が貨幣として流通していた東国では、銭貨がいち早くそれにとって代わり、あらゆる分野で顕著に用いられるようになっているのに対し、西国では越前国今立郡方上荘で米に対し銭の値が高いといわれ(資2 東洋文庫所蔵文書二号)、文永六年(一二六九)若狭国遠敷郡太良荘雑掌定宴が「得難きの銭」を地頭が責め取ると述べているように(な函一六)、銭よりもむしろ米が支払手段・交換手段としての貨幣の機能を保持し続けており、それが現地の人びとと、銭貨を要求する東国の地頭との間に摩擦をおこすことになっているのではないかと思われる。
 このような社会の変動のなかで、幕府は弘長二年(一二六二)五月二十三日の追加法のように、西国における山僧の寄沙汰(訴訟、例えば債権の取立てなどを第三者に委託し、それを実現してもらうこと)の請取および悪党の動きに対し、厳しい禁圧の姿勢をもって臨んでいた。これは王朝・幕府の公権力とは独自に活発化した手形の流通、信用経済を保証する山僧・神人のネットワーク、債務の取立てなどを執行する流通路の「領主」ともいうべき武装集団―悪党・海賊に対する規制であり、御家人の所領の売買・質入を禁じ、本物(本銭)を返却すれば本主(もとの持ち主)の手に取り戻すことができるとした文永四年の「徳政令」と同じ方向の、所領中心の農本主義的な政治路線の直截的な表現ということができる。
 しかし、これと真向から対立する路線が幕府の中枢部に動いていたのである。太良荘を含む供料荘を基礎として東寺供僧を中心とする中世東寺の体制を確立した仁和寺菩提院の行遍は、晩年に各方面から借財をしているが、得宗御内人の最有力者安東蓮聖からも一五〇貫文という多額な銭を借りている。蓮聖はこれを横川に住む山僧正智房暹尋僧都から借用して用立てたとしており、文永元年に行遍が死去すると、蓮聖はこの山僧にその取立てを依頼し、暹尋は菩提院領の越中国石黒荘(富山県福光町)の年貢を近江の堅田浦で差し押さえたのである。これこそ、幕府が厳重に禁制している山僧への寄沙汰に他ならないが、北条氏の家督―得宗の家人がそれを臆面もなく行なっているのである。
 このような得宗御内人の姿勢は、ますます発展していく商業・金融・海運などの流通に積極的に関与し、それを支配の基盤にしようとする政治路線に結びついており、これ以後の政治はこうした二つの路線―農本主義的な路線と商業重視の路線との間の緊張・対立をはらみつつ、展開していくこととなる。



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