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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     六 若狭の荘園
      天皇家領
 長講堂領である遠敷郡三宅・吉田の両荘は室町期以後も天皇家領として存続しており、このうち吉田荘は上吉田と称されるようになるが、複雑な経過を経たのち永正十二年(一五一五)より武田氏家臣松宮氏が年間三〇貫文で請け負う代官となって、天正八年(一五八〇)まで年貢が納入されている(「守光公記」永正十二年九月十五日条、『御湯殿上日記』天正八年九月七日条)。室町院(後堀河天皇皇女暉子)領のうち持明院統に伝えられた荘園は伏見宮院領となるが、遠敷郡松永荘もその一つの荘園として室町期にも維持されている(『看聞日記』)。同じく室町院領であった遠敷郡恒枝保は大覚寺統に伝えられ、建武元年(一三三四)まで後嵯峨法華堂が領家であったことが知られるが(ゑ函二七)、南北朝内乱期に他の大覚寺統荘園と同じく押領され、室町初期には守護一色氏の家臣石川氏が現地を支配しており(リ函二七一)、永享五年には南禅寺語心院領、寛正五年には京都五山の一つ万寿寺領とあり、幕府の保護する臨済宗寺院領となっている(資2 尊経閣文庫所蔵文書三二号、「京城万寿禅寺記」)。さらに室町期になると、 天皇家はそれまで関与しなかった今富名内遠敷郡小浜からの年貢の一部を収納するようになり(五章二節四参照)、永禄元年(一五五八)閏六月には年々未進分のうち一〇〇貫文を受け取っていることが知られる(「若狭国志」伴信友註所引文書)。天皇家は祈願寺である京都六勝寺領の本家職を有していたが、鎌倉期には六勝寺の一つ法勝寺領として三方郡永富保、同じく尊勝寺領として三方郡藤井保と得吉保(所在地未詳)があった。南北朝末期までには六勝寺が廃絶するが、こうした動向のなかで南北朝期に永富保は醍醐寺理性院領となり(資2 醍醐寺文書四三号)、藤井保は尊勝寺末寺であった東岩倉寺領となっている(資2 大覚寺文書七号)。全体としていうならば、若狭においても大覚寺統荘園の没落を確認することができる。



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