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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     六 若狭の荘園
      そのほかの荘園
 伊勢神宮の御厨(荘園)である三方郡向笠荘は、室町期においても御厨の名は本家分として存続しているが、半済が行なわれた結果、半済分は京都相国寺広徳院が、残り分は京都毘沙門堂が知行することになっていた(資2 尊経閣文庫所蔵文書三四号、三千院文書三号)。局務(太政官の事務局)を世襲した中原氏の支配する大炊寮領三方郡田井保は、後述するように南北朝期には守護の違乱を受けながらも支配を維持していた。しかし文安六年(一四四九)五月九日に中原安富が幕府に回復を願った大炊寮領のうちにみえてはいるものの、このときは京都の真言宗寺院安禅寺の所領となっていたものと思われ(『康富記』同日条)、その後も中原安富の日記に現われないところからすれば、大炊寮領としての実態は失われていたのであろう。他方、官務(弁官の事務局)を世襲した小槻氏が領家職をもっていた遠敷郡国富荘では、元弘三年(一三三三)に後醍醐天皇から小槻匡遠に得宗地頭職が寄進されたが、太良荘と違って地頭職を保持することができず、後醍醐の新政府が倒れると地頭職は律宗東山太子堂(速成就院白毫寺)が支配し、小槻氏に御封米二一石余を納入することになっていた(『壬生家文書』三二一・三三二号)。さらに永徳元年(一三八一)以前に 守護一色氏によって半済が行なわれたため、幕府からたびたび半済停止が命じられているが、一色氏家臣たちの抵抗もあり、小槻氏が領家職を一円に回復することは困難であった(同五七号など)。遠敷郡西津荘は神護寺が南北朝期以後においても領家として支配を続けたかどうか不明であるが、南北朝期以後この地に守護所が置かれることが多かったため、鎌倉期得宗領であった地頭職は守護が知行するようになった(「守護職次第」)。また三方郡耳西郷は、弘安年間(一二七八〜八八)に寄進を受けた春日社が領主として戦国期初めごろまで支配を維持しているが、康安元年(一三六一)にこの郷の半分地頭職は臨川寺・天竜寺に寄進され(資2 天龍寺文書四号)、この両寺は荘園の管理にあたる庄主を任命して支配を行なった(資8 渡辺六郎右衛門家文書一一号)。全体的傾向としていうならば、幕府の保護する京都禅宗寺院の所領拡大の動向は、若狭においてもまた確認することができる。



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