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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
     六 若狭の荘園
      国衙領
 文永二年(一二六五)の若狭大田文においては国衙領とされているが、そののち鎌倉末期までに荘園化した耳西郷と恒枝保についてはすでに荘園として述べた。その他の国衙領については、おおよそ次のような変化がみられる。
 まず遠敷郡を中心に存在した、比較的小規模で郡内に散在していた国衙別名(千代次名・武延名・沢方名・時枝名など)は、南北朝期以後においては史料上確認することができなくなる。国衙別名として最大規模であった税所今富名に関しても、南北朝期以後には「三方今富」「国富庄今富」とあるように、近辺の所領に吸収されていることがわかるので(「紀氏系図」裏書、資9 羽賀寺文書二二号)、今富名中心部が税所今富荘として存続したほかは、これら小規模の国衙別名は周辺の所領に吸収され消滅したのであろう。
写真128 遠敷郡宮川保

写真128 遠敷郡宮川保

 次には室町期将軍直属の家臣である奉公衆の所領となったものがある。大飯郡本郷は領主国衙、地頭本郷氏の 所領であったが、南北朝期以後は国衙職と称される国衙の領主権も本郷氏が支配しており、国衙に対する支配権をもつ守護の一色氏と武田氏はこの国衙職を没収しようとしたが、幕府はこれを本郷氏に安堵している(資2 本郷文書六一・六八・九〇号)。本郷はこのように幕府の強い保護のもとではじめて維持しうる所領であったから、文明十二年には本郷氏一族内部の紛争に関連して郷年貢の半分が幕府の所領である料所とされ、本郷氏に預けられるという処置がとられることもあった(同九七号)。国衙領に関して幕府の支配が優先されていたことは、鎌倉期に国衙領で得宗や関東御家人が地頭であった所領のうち、室町期には幕府料所として現われるものが多いことからも推定される。すなわち遠敷郡富田郷・宮川保や大飯郡青保がそれであり、遠敷郡鳥羽保も室町期には幕府奉行人松田豊前守や幕府倉奉行籾井氏が支配しているからこれに準じてよいかと思われる。富田郷においては寛正六年三月二十三日に幕府政所代蜷川親元が代官となっているが(『親元日記』同日条)、その公文には一色氏のもと家臣の片山氏が任じられていることや、鎌倉期在庁官人の系譜をひく池田氏が幕府政所伊勢氏とつながりをもってこの地を本拠地としていたことが注目され(三章三節四参照)、幕府料所が守護武田氏より自立的な立場をとろうとする国人たちの拠点ともなっていたことがわかる。
 以上からみて、国衙支配に置かれていた浦(賀尾浦・阿納浦・三方浦など)のその後の変化が明らかでないとはいえ、若狭国衙領に対する室町幕府の支配権の優越は明らかであろう。他国の例では国衙を支配下に収めた室町期守護が 国衙領をも知行した場合が多いと推定されているが、若狭においては幕府およびそれと直接に結びついた奉公衆がもとの国衙領の大きな部分を支配していたのである。一色氏が幕府の命令にもかかわらず半済に固執したことや、武田氏が国内寺社本所領荘園の預所職の知行を幕府から許されたのも(三章四節三参照)、こうした守護領としての国衙領の相対的少なさと関連させて考えるべきかもしれない。



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