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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    五 牛原荘
      絹の荘園
 当初、荘は南北に分けられそれぞれに預所が置かれて支配にあたっていたが、平安末期には北荘・中夾・南荘の三つに分けられることになった。さらに鎌倉期には庄林を加えて荘は四区分されており、北荘一六九町一段一四〇歩、南荘一九〇町九段七〇歩、中夾五九町三段二五五歩、庄林四〇町八段四〇歩と記される。毎年の年貢は五〇〇石で、そのほかに段別米・加徴米、あるいは綿・小袖絹・糸・苧などの公事を負担していた(資1 「醍醐雑事記」巻一)。鎌倉期末の徳治二年(一三〇七)の荘内井野部郷の算用状によれば、米年貢はほぼ銭納化されており、絹製品の一部も銭納となっている。しかし布・綿・小袖絹・糸・苧は大部分が現物納であり(同三八号)、当荘は「絹の荘園」としての性格を帯びていたことがわかる(一章六節四参照)。



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