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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    五 牛原荘
      地頭の支配
写真125 大野郡牛原荘

写真125 大野郡牛原荘

 大野郡北部に圧倒的な支配力をもった平泉寺の影響は郡南部にもかなり及んでいたと推測され、平泉寺衆徒の行動は荘園支配の確立をめざす円光院を悩ませていた。平泉寺僧徒は牛原荘内に居住し活動しており、寺家から課される所役に従おうとはしなかった。また平泉寺に篭居している夜討・強盗の輩が当荘に乱入して荘民を苦しめたという(資1 「醍醐雑事記」巻一二)。これに対し源平争乱時の寿永三年(一一八四)春に源頼朝使の北条氏代宗安は当荘に入居して乱妨しており(資1 「醍醐雑事記」巻一〇)、鎌倉期に入ると郡内荘園のなかではいち早く当荘に地頭が置かれた。源平争乱のさい軍事的勢力として活動した平泉寺を牽制するうえで、当荘は鎌倉幕府からその拠点として位置づけられたものとみられる。寺家はこうした地頭の設置を訴え、地頭停止の院宣と頼朝の状を 得たが、地頭は退去せず、遠江入道・山城入道(二階堂行政)・土佐三郎広義と三代の地頭が続くことになった(資2 醍醐寺文書二五号)。承久の乱のときには武士の狼藉によって年貢算用ができなかったとされているが(同二一号)、承久の乱後に新たに北条義時の甥時盛が地頭となり、村々地頭代九人、惣追捕使ならびに公文五人、従類一〇〇余人を引き連れて荘に入部した。寺家の訴えにより、地頭は先地頭の得分を守り、代官も北と南に一人ずつにすることをなどを命じる関東下知状が、承久四年(一二二二)四月五日に出されている(同二〇号)。地頭と領家醍醐寺の争いはそののちも続き、領家側は検断沙汰について地頭は三分の一であると主張したが、地頭側は先地頭のときより地頭の一向沙汰であるとして、寛元元年(一二四三)の関東下知状により認められている(同二五号)。
 承久の乱後の関東御家人地頭による支配強化とそれに抵抗する荘民の動きは遠敷郡太良荘でもみられるが、当荘では仁治元年(一二四〇)四月に寺家の荘官や収納使と結んだ盛長ら荘民一三人が地頭又代官の重円法師とその妻子五人を殺害するという事件がおこっている。この重円はもと浪人といわれているが、文書の作成や管理能力があったため承久の乱以前より公文や預所に召し仕われていた。ところが文書を所持し荘の故実に通じていたことから地頭又代官となり、検断は地頭の一向沙汰であるという寺家に不利な証言をしたり、荘民らをないがしろにする態度をとったため、怒った盛長ら荘民に殺害されたのである。荘民のうち盛長ら五人は以前にも「殺害の咎」の ある人物とされており、地頭の訴えによれば荘民は地頭代下人の資財を奪い住宅を焼き払ったといわれ、地頭方と荘民の対立はこれ以前からかなり根深いものがあったものと思われる。重円殺害に対する地頭方の報復も厳しく、地頭代真念は田畠一〇〇町余を刈り取り重円を殺害した百姓らの田畠・家地と所職を没収し、幕府の返却命令にも従わず、荘の大部分を押領した。しかし寛元元年の関東下知状により、真念は改易され荘民の所職は回復された(同前)。一方この事件に関連して醍醐寺内部では、宝治元年(一二四七)七月十三日に、地頭代真念の押領によって仏事供料が途絶えたとして不満を募らせた醍醐寺実賢門徒が、荘の知行にあたっていた醍醐寺上座法橋蔵厳を殺害するなど、実賢門徒と醍醐寺衆徒との間で合戦がおこっている(「葉黄記」同年七月十四日・九月二十五日条など)。
 鎌倉末期に当荘の地頭であったのは、前述した地頭時盛の子と伝える地頭淡河時治であるが、鎌倉幕府が滅びるなかで、彼は元弘三年(一三三三)五月十二日に当荘に押し寄せた平泉寺衆徒の攻撃を受け自害している(「北条系図」、『太平記』巻一一)。平泉寺衆徒にとって、牛原荘地頭は鎌倉幕府による平泉寺抑圧の象徴であったからであろう。



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