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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    五 牛原荘
      荘域の変遷
 応徳三年には、以前に賢子の中宮亮を務め応徳三年当時は越前国司となっていた源高実が、大野郡司に命じて「円光院御庄四至内荒野田畠注文」を作成させているが、この牛原荘四至内には真名川以西の荒地二〇〇町も含まれており、浪人を招き「田代」が開発された。立荘時の東限は真名川であったが、そののち国司は荘域を削減しようとする動きをみせる。寛治二年(一〇八八)に国司源清実は、大野川(清滝川)より さらに西へ四〇町歩削減した地を東限と定めた。しかし寺家の訴えにより、同四年には大野川を境として示が打たれた。そののち平忠盛が国司であった保安元年(一一二〇)から大治二年(一一二七)の間に東限は真名川まで回復されたが、その後の国司藤原顕能は再び削減して東限を大野川とした。寺家は東限を真名川とすることを願い、長承元年(一一三二)九月二十三日の官宣旨でそれを許されている(資1 「醍醐雑事記」巻一二)。
図27 大野郡牛原荘付近図

図27 大野郡牛原荘付近図

 当荘四至の東限はこのように在任する国司の意向によってそのときどきに変化した。これは当荘が国司の租税免除により成立した国免荘としての性格をもっていたことによる。国免荘は十一世紀の中ごろから事実上認められるようになったとされているが、租税免除は本来太政官のみが行ないうることであり、国司による免除はその国司の任期中だけ有効であったから、国司の交替によって免除の範囲は変わりえた。したがって荘園領主の円光院側はその都度荘域確保の国司の「免判」を得なければならなかったが、この長承元年には「末代の国司、綸旨(天皇の命令)無きと称し、なお妨げを致すを恐る」との理由から、天皇の裁可を経たことを示す官宣旨を得たのである。国免荘から国家に保証された荘園となることにより、荘域は安定したかにみえた。
 ところが真名川が東限と定められたことにより、新たな問題が生じた。この真名川から大野川の間にある泉郷には 参議藤原成通の私領があり、そのため寺家と成通との間で争いとなったのである。長承二年正月二十七日の官宣旨では、成通の私領である大野郡泉郷は円光院領とし、成通は毎年三〇〇石を円光院に納入しなければならないが、この成通私領には円光院使は立ち入ることができないという妥協案が命じられた(資1 「醍醐雑事記」巻一三)。しかし成通はこれを履行せず、また円光院側もこの決定では荘の東部の上井辺・下井辺・吉岡村が成通領となるとして抵抗した。結局同年六月十四日の官宣旨により、寺家は成通私領を排除する代わりに、大野川を東限とする寛治四年の四至で妥協し、最終的に荘域が確定されたのである。このときの四至は、東は大野川、南は弘田村(所在地未詳)、西は坂戸、北は山峰を限るとあり(同前)、今日の清滝川以西、大野市街地の北半部以北が荘域にあたると推定される。荘域は確定したものの、他の荘園と同じく国司が臨時に課すさまざまな課役免除をめぐる問題が生じたが、保延四年(一一三八)十一月二十八日の国司庁宣では官省符荘としてみえ、十二世紀の中・後期には国司が課す引出物絹・人夫役などが免除されており(資1 「醍醐雑事記」巻一二)、荘園として確立されたとみてよかろう。



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