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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
     五 女性の活動
      太良荘の女性名主
 このような社会変化のなかで、越前・若狭の女性たちの地位や権限はどのようになっていったのであろうか。この点について、南北朝期だけでなく室町・戦国期をも視野に入れつつ概観してみよう。
 すでに述べられているように(一章六節三参照)、鎌倉期には女性が地頭や預所として活躍している。彼女たちは御家人の娘であったり、京都に居住する預所の娘であったりしたから、いわゆる庶民層ではなかったが、自ら名主職や預所職たることを主張し、その権限を行使した。また鎌倉期には若狭の国御家人のうちに「宮河武者所後家藤原氏」がみえ(ホ函四)、三方郡山西郷において荘園領主の裁定を現地に伝えた「預所源氏女」は「春日真性法眼後家殿」とされているように(資8 園林寺文書二二号)、後家が夫に代わってその勤めを果たすことも珍しくなかった。さらに正応六年(一二九三)ごろ遠敷郡多烏浦の浦人たちは、代官円性房が汲部浦の悪行を放置するので、代官円性房の妻に訴えて悪行を停止すべきとの「下知」を得ていたとされている(秦文書三三号)。これらの例から、御家人や荘官層においては娘が父母の職を継承して支配にあたること、後家が亡夫に代わってその権限を行使すること、さらに妻も夫に準じるような権限をもつと期待される場合のあったことを知ることができる。
写真116 太良荘百姓小槻重実申状

写真116 太良荘百姓小槻重実申状

 さて鎌倉期の庶民層の女性においてはどうであったかをみると、史料の豊富な太良荘においても女性の名主は見出すことができない。鎌倉前期に勧心名の名主であった女性は、我身は「女身」であるので子息の西念をもって公事を負担したとされており(お函一)、横暴な地頭などに対しつつ、名主として種々の公事を果たしていくことは女性には荷の重いことだと考えられていたのであろう。しかし鎌倉末期以後、名主職が名主の 得分権として相伝されるべきものと考えられるようになると変化がおこる。南北朝期中ごろの太良荘真利名の名主は禅日女という女性であった。延文三年(一三五八)三月、水害で河成となった田地を書き上げ起請文をもって年貢減免を願った太良荘民のなかに「せんにち女」がみえ(フ函三〇)、禅日女は真利名主として認められていたことがわかる。ところが彼女の名は年貢未進のため惣百姓預かりとされ、ついで他人に与えられようとしたため、彼女はこの名の返付を求めて訴えを続けた(ツ函三三)。この真利名は結局貞治四年(一三六五)に乗蓮という荘民に与えられたが(ツ函五七)、先祖相伝の由緒を主張する禅日女はそれにもめげず、応安五年(一三七二)七月まで訴えを続けている(し函四三)。



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