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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
     三 女性の御家人・名主
      女性の御家人
写真58 沖ノ石(小浜市)

写真58 沖ノ石(小浜市)

 鎌倉期の、特に若狭の史料には多くの女性が登場してくるが、これらは全国的にみても貴重な例なので、ここで彼女たちの活動の跡をたどり、この時期の女性の担った役割やその社会的地位などについて考えてみよう。
 平安末期から鎌倉初期の太良保においては、丹生隆清の没後の天治二年(一一二五)に妻小槻氏が子の忠政にこの地の私領を譲り、忠政の死後の仁平元年(一一五一)には孫の丹生若丸(雲厳)にそれを譲っていることが知られるから(ぬ函一)、彼女は夫や嫡子の死後は後家としてその私領を管轄していたことがわかる。御家人となった雲厳より太良保の公文職と末武名を譲られた中原(稲庭)時国はその所務を母の中村尼にゆだねたが、この尼は建保四年(一二一六)には領家から正式に太良荘の公文職・公文名名主に補任されている(は函一)。このように女性が荘園の公的な職に任じられ、また後家として財産を管理することは当時珍しくなかった。さらに鎌倉初期に若狭の国御家人として認定された三三人のなかには、一人だけではあるが「宮河武者所後家藤原氏」という女性が知られるのである(ホ函四)。またこれは国御家人の例ではないが、文暦二年(一二三五)に遠敷郡宮河保内黒崎山を支配していた讃岐尼御前とは「沖の石」の和歌で有名な二条院讃岐のことと推定され(秦文書三号)、彼女がこの地を支配していたのは、夫である遠敷郡松永保・宮河保の地頭宮内大輔重頼の跡を引き継いだか(『吾妻鏡』文治四年九月三日条)、あるいは父親の源三位頼政が与えられたといわれる宮河保を譲られていたからなのであろう。



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