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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    二 惣百姓の形成
      起請文か、検見か
 こうした惣百姓の行動に対する供僧の対応についてみると、供僧は嘉元二年九月に執拗な損免要求を受けて、惣百姓から被害状況を起請文で報告させた。起請文は神仏の言葉にも等しい真実の誓約であるから、これを人間である供僧は否定することができず、どうしても損免を認めざるをえない。そこで起請文は供僧の「御免を蒙」った場合、すなわち許可を得た場合のみ提出させることにしているが、そうすると惣百姓は起請文提出を認めてくれるか、それとも「正直御使」を派遣して検見をしてくれるかどちらかにしてほしいと迫っている(ヱ函二八)。供僧が起請文提出を認めるにせよ、検見をするにせよ、いずれにせよ何らかの妥協を余儀なくされるのであって、紛争は一定の作法や手続きを経たのちに妥協的な決着をみるのである。これが室町期になれば惣百姓は紛争の最後の手段として「逃散」という行動に訴えるようになるのであるが(三章四節四参照)、得宗支配下の惣百姓はそこまでの行動はとっていない。
 このように収納予定の年貢米の半分近くを損免として認めざるをえなかった供僧は、正和元年(一三一二)には残りの年貢を確保するために惣百姓に請け負わせたので、四人の名主は損免分を除いた領家年貢を「百姓のなかのさたとして」納入するという請文を提出している(ヱ函三四)。この惣百姓請負は制度としては定着しなかったが、荘園支配が一定の手続きによって確定された年貢額を収納するという数量契約的なものに変質しつつあることを知ることができる。先にも述べたように、多烏・汲部の両浦百姓は延慶四年に地頭方年貢銭二三貫文と万雑公事銭一七貫文の合計四〇貫文の年貢請負を実現しており、この請負額は室町期にも継続されている(秦文書五三・五四・一〇四号)。ただし、太良荘の惣百姓は得宗の権威を背景として領家に対抗していたから、得宗が姿を消した南北朝期には複雑な動きを示すことになる(二章三節二参照)。



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