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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
     二 惣百姓の一揆
      一味神水する惣百姓
 遠敷郡太良荘民は建武元年(一三三四)七月に、得宗時代より年貢負担が重くなったことを東寺に訴えた申状のなかで、「根本所務御例」「以往御例」では百姓が困っているときには東寺から「農米」(種籾代や秋の収穫期までの生計費)を与えられることになっているが、今日では農業の始まる時期になると、自ら勧農(農業を行なうために必要な手立て)をして、農業を営むのだと述べている(ツ函二三)。すなわち荘園領主の「農米」給付に頼ることなく、自前で農業を行ないうることが、過去との対比で述べられている。
写真111 太良荘百姓等申状并連署起請文(は函八六)

写真111 太良荘百姓等申状并連署起請文(は函八六)

 ただし、個々の農民についてみれば出挙銭等を借りて農料としなければならない農民が多かった(ヱ函五六)。しかし弱小農民であれ出挙銭を借りていることは、不安定ながら一つの経営体をなしていたことを示しており、また本来世襲されないものであった一色田(名田に編成されていない耕地)についての作人の権利もこのころには「作人重代所職なり」と記される場合もあり(ヱ函六七)、小百姓と呼ばれる彼らが次第に発言権を強める前提は築かれていた。こうした小百姓を含む惣百姓が明瞭な形で現われたのが、建武元年八月に地頭代脇袋頼国およびその地下代官順生房を排斥するために五九人の荘民が連署した起請文であった(写真111)。荘民たちは「百姓等一味神水」とあるように、自らの要求貫徹のため神仏に誓った一揆を結んだのであるが、対外的に惣を構成したのはこの起請文に署名する五九人であった。署名者の中心人物である公文の禅勝にはこのころ隠居していたと思われる父(良巌)のほか弟二人、所従一人がいたが(ハ函一四)、彼らはこの起請文の署名者としては現われないので、惣百姓とは少なくとも 対外的には個別の経営体をもつ者を構成員としていたと判断される。また、女性も署名者としてみえないことも注意しておきたい。
 地頭代脇袋に対する荘民の訴えは、脇袋が農夫などの夫役を際限なく徴発することや荘家警護に事寄せて荘民の家屋を壊し取ることなどを内容とするが、ここでは訴えのなかの一つである「節食」(節養)についてのみとりあげておく。これは地頭代が正月の節養酒を隠して、荘民には絞糟だけを出したことを「希代の所行なり」と訴えたものであるが、鎌倉期の預所と荘民の間では、預所が正月節養として酒食を振る舞い、荘民はその返礼として預所の手作地を耕作するという慣行があった(ア函三四)。地頭代の吝嗇な行為は代官と荘民のこうした慣行的合意を踏みにじるものとして糾弾されているのである。この節養とやや性格が異なるが、貞和三年(一三四七)に祭礼のときに振る舞うべき清酒の代わりに濁酒を出した今立郡山本荘土宮の祝は「庄家一同」より訴えられている(資5瓜生守邦家文書三〜六号)。惣百姓はこれ以後も不当な収納を拒否し、在地の慣行を領主に守らせるための行動を強めていくが、それは惣の力を背景として初めて可能であった。



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