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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
     二 惣百姓の一揆
      荘官層と惣百姓
 荘民も野伏として出陣するような戦乱期のなかで(資6 三田村士郎家文書一号)、地下の反発も強まった。遠敷郡汲部浦や隣浦の多烏浦のように鎌倉期にすでに年貢・公事銭の地下請を実現しているところでは、暦応四年(一三四一)三月に 所務代官入部に反対して逃散するという強い抵抗を示し、代官入部を阻止している(秦文書八四号)。こうした動きのなかで村落の指導者がその権限を強めようとする場合もあった。汲部浦の刀は建武二年十二月に山林を伐ることを禁止し、違反者は三〇文の科料を取るという「禁制」を発している(同七九号)。
 太良荘の公文禅勝とその甥実円も動乱のなかで百姓を支配する立場に立とうと試みた人物であった。名主によって構成される領家方に対し、制度上名主のいない地頭方は荘民の抵抗が比較的弱いところであったので、公文禅勝は地頭方馬上免百姓に対し荒地を堀田(開発田)と称して年貢を取り(ハ函一三)、実円もまた地頭方において隠田を行ない、地頭方百姓から任料(耕作安堵料)を徴収していた(ヱ函六七)。しかしこれは当然惣百姓の反発を受け、暦応二年禅勝の父の良巌の家が放火されたことに対し、禅勝が守護使を導入したという罪で禅勝は公文職を、実円は時沢名半分を失う(ヱ函五四)。のちに禅勝の罪科の一つに「自放火」が挙げられているから(し函二四)、この放火は禅勝が守護の力を借りて一気に惣百姓を押さえ込むために自分でやったこととみるのが正しいようである。こうして自ら領主に準じた権力を行使しようとした禅勝・実円の動きは惣百姓によって封じられた。
 こののち延文元年(一三五六)七月に公文に返り咲いた禅勝と実円に対して、惣百姓は五三名の連署起請文を捧げ、このとき地頭代であった宮河弾正忠と結ぶ禅勝・実円を荘から追放することを東寺に迫った(し函二二・二四)。そこで禅勝・実円は東寺に頼み込み、延文三年三月に惣百姓との和睦がなされた(ツ函三六)。こうして結束を強めた惣百姓は引き続き一揆を結び、地頭代宮河弾正忠を排斥することに成功する(ハ函四二)。
 このように惣百姓の一揆は禅勝らの意図を挫折させ、また脇袋や宮河のように荘の慣行を無視して支配を強化しようとする代官を規制もしくは罷免する力をもっていた。こののちも惣百姓が改易を要求した代官はことごとく 罷免されており、惣百姓を無視して代官支配を行なうことは不可能であった。そしてこうした惣百姓結合の強化が農村社会における南北朝動乱を終息させる主要な力となったのである。



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