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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
     二 惣百姓の一揆
      名主職相論の終焉
写真112 遠敷郡脇袋

写真112 遠敷郡脇袋

 太良荘における建武元年の地頭代脇袋頼国排斥の惣百姓一揆、延文元年から同三年の禅勝・実円排斥の惣百姓一揆、同三年の地頭代宮河弾正忠排斥の惣百姓一揆、これらの一揆の背後には名主職をめぐる特定荘民の利害があった。脇袋国広と時沢名を争っていた実円は建武元年の一揆によって脇袋に名主職獲得を断念させることができた。また延文年間の二つの一揆の背後には真村名を確保しようとする法阿の姿があった。いずれの場合でも、惣百姓を味方に付けた者が名主職を確保した。
 名主職をめぐる相論が、荘園領主のもとで法と論理にもとづいて決せられるというよりも惣百姓の動向に左右されるようになると、荘園領主の文書から名主職相論に関するものが消えていく。またこれと関連して、名主職が親から子へ譲与されたときに荘園領主が発する代継安堵状(補任状の形式をとる)も南北朝期以後はみえなくなる。南北朝期の代継安堵状は、貞治六年(一三六七)の乗蓮跡真利名(資9 小野寺文書一号)、永和元年(一三七五)の道阿弥跡時沢名四分の一のように(資9 長英寺文書二号)、多くは先祖相伝名ではなく、乗蓮や道阿弥のときに初めて獲得した名について出されている。南北朝期には当名主が死亡したとき、その名に由緒をもつ者が返付を求めて訴える例が知られるので(同一号、し函四二)、新たに補任された名主職はその人一代限りの権限、 いわゆる「遷代の職」と考えられ、それを子孫が相伝していわゆる「相伝の職」とするためには、荘園領主の代継安堵を必要とするとみなされていたのであろう。
 南北朝動乱のなかで惣百姓結合が強化されてくるとともに、名主職相論は減少し、室町期になると名主職相論が惣の外に提訴されて争われることはほとんどなくなる。惣は南北朝期の農村社会の変化をある程度受け入れ、固定化していったのである。



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