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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
    三 一円支配への動き
      武士と荘官の動向
 南北朝の内乱は領主の支配のあり方にも変化をもたらした。まず国人の所領支配についてみると、本拠地以外の所領を支配することができなくなった。若狭大飯郡本郷に土着していた本郷氏は内乱のなかで一貫して尊氏・義詮方として軍功を挙げ、本郷のほか越後・越中・越前・美濃・丹後などの諸国において新所領を与えられているが、室町期にはこれら新所領はすべて不知行になっている(三章三節一参照)。
 鎌倉期においては、本郷氏が得た越前丹生郡大井の武重名を分与された庶子が、庶家大井氏を称して存続することが可能であったが(資2 本郷文書八・一二一号)、南北朝以後はそうした新所領における庶家分立は不可能となった。したがって庶子に所領を分与する場合には本拠地である本郷内の一部を割分として与えたが、室町期になるとこの割分をめぐる惣領家と庶子家の紛争が生じている(同前)。こうした紛争を避けるためにも、南北朝期から庶子の分割相続を止めて嫡子単独相続がとられるようになる。
 次に荘官職をもつ者の動向をみておこう。観応の擾乱によって得分を確保しがたくなった太良荘の預所の賀茂定夏は文和二年(一三五三)八月に、不慮の事態にそなえて預所職を弟の阿賀丸に譲り、荘に下向した(ツ函三一)。定夏はまもなく荘を押領していた国人代官に殺害されており、相伝の職を守ることはまさに命懸けのことであった。遠敷郡名田荘の惣荘支配権を主張する花山院兼信の「家僕」である藤原清季とその庶子たちは、兼信と対立する者と結んで名田荘坂本村を支配しており、観応元年(一三五〇)六月に清季らは兼信と争っている。争いのなかで非を認めた清季は、今後は兼信より賜わった「御恩」として「扶持」されるよう起請文を捧げている(『大徳寺文書』三五三号)。これも荘官の地位をなんとか確保しようとする「家僕」たちの動きとみることができよう。坂井郡榎富荘において守護の押領により年貢を納入できなかった者は、本家より「無主」の地としてその権利を奪われている(資2 東洋文庫所蔵文書四号)。さまざまな「職」をもつことは支配するための前提として必要ではあったが、それが実際に土地あるいは荘民支配と結びついていなければ有効でなかった。



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