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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
    三 一円支配への動き
      荘園所職の集中
写真113 遠敷郡名田庄田村

写真113 遠敷郡名田庄田村

 本家職や領家職をもつ貴族や寺社においても、実際に現地を支配していないものの立場は弱くなりつつあった。荘務に関与していなかった太良荘本家の歓喜寿院が取得していた本家米は文和三年に東寺に寄進されている(ム函二八)。東寺は吉田郡志比荘においては逆に本家職得分をもっていたが、南北朝期を通じて地頭波多野氏と争ったにもかかわらず、ついに得分確保はならなかった(こ函五一、さ函五七)。名田荘知見村について大炊御門公員の子孫と争っていた守寛とその子の行寛は、相論が不利とみるや花山院兼信と結ぶことを考え、貞和二年(一三四六)十一月に知見村内の地を兼信に去渡し、自分たちは兼信領の預所となるという「合躰」の契約を結んでいる(『大徳寺文書』三四二号)。名田荘においては貞治元年(一三六二)以後、守護斯波義種の支配下で長法寺・土屋などの 土豪や守護家人新名繁氏の押妨が激しくなり(同一三五・三七八号、資2 土御門家文書五号、徳禅寺文書三三号『福井県史研究』一〇)、おそらくそれが決定的な要因となって下村・知見村・井上村のそれぞれの領主はそれらの村を大徳寺義亨に譲与あるいは寄進し、ここに以前から支配していた田村を加えて大徳寺領四か村が成立したのである。また今立郡山本荘においては、鎌倉円覚寺の支配権と有栖川清浄寿院の権限を継承する山門青蓮院の支配権とが競合していたが、至徳元年(一三八四)十二月に春屋妙葩が青蓮院の権限を三万疋(三〇〇貫文)で買い取り、これを円覚寺に寄進して、山本荘を円覚寺一円所領としたことが知られる(資2 円覚寺文書一九号)。
 このように南北朝動乱期には、荘園領主たちの間で競合者の排除、有力者への統合、権限の買取りなどを通じて直接に土地と農民を支配するための一円化の努力がなされたのである。それをなしえないで「職」にのみ頼る荘園領主や荘官はその権利や得分を失うことになった。



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