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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
    四 山徒・山伏の請負代官
      所務代官
 動乱期にはまた請負代官制が広くみられるようになった。荘園領主は従来の荘官の跡が絶えた場合などを利用して、新しく「所務職」と称されるような代官を任命した。貞和二年(一三四六)七月に 遠敷郡の国人である橘(松田)知基は東岩倉寺領同郡津々見保の「所務職」に任じられている(資2 尊経閣文庫所蔵文書二四号)。知基の「御代官得分」の内訳には本田四町六畝二四歩などと細かい数字が挙げられているので、この「所務職」とはそれまでの荘官職を継承した可能性が強く、過渡的な性格をもっている。観応の擾乱後の貞治六年(一三六七)五月に竜若丸が若狭の三方郡永富保領家方の所務代官に任じられたときの請文によると、国中大損亡のときを除き七二石を年貢額とし、そのうち「所務得分毎年五分一」を引いたものを国の和市で換算して代銭で十一・十二月中に納入するとあり、この所務代官職はそれまでの荘官職と違って、双方の契約にもとづく請負代官職であったことがわかる(同二八号)。それまでの荘官職は鎌倉期以来の長い歴史のなかで定まってきた歴史的性格を帯びており、それゆえ荘官職の権限や得分は極めて多様であった。それに対しこの請負代官制は双方の契約によっていつでも、また誰とでも新しい関係を作り出せるのである。右の永富保でみられる代官得分五分の一という定めはこのころから広くみられるようになるもので、どこの荘園であれ代官が似たような性格をもつようになったことを示している。
 さらに請負代官は任命時に多額の補任料を納入することが義務づけられており、この補任料は請負代官による荘園領主への一種の貸付けで、代官はそののち年々の代官得分でそれを回収するものと考えられていた。要するに職を通じて人的な相互依存関係を作り出すというそれまでのあり方から、銭貨の損得利害が最優先される契約関係となったのである。こうなると土倉・酒屋を営み、日吉上分米(日吉社への初穂料)を運営して多くの銭貨を動かしうる山僧(山門系の僧)や、熊野社の上分米などによって同様の能力をもつ山伏が請負代官として活動しうることになる。



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